晴れやかに歩いていた
「晴れやかに歩いていた」
本当はこの話は2017年9月10日の詩の教室でするはずだったんだけど、その一週間前に僕は、坂道で自転車から転げ落ちて脚を骨折してしまった。そんなわけで、もう講演はおじゃん。そういう運命なのかなと思ったけど、あるいは骨折が治ってから話をすればいいじゃないかって思われるかも知れないけど、そういうものじゃない。
だから、実際に講演した時のようには頭は働かないけど、どんな話をするつもりだったのかを、せめてここに残しておこう。
今日は9月18日、僕は術後の不自由な体で、ベッドの中でこれを書いている。
僕は教室で、先々月は「ロシナンテ」、先月は「グッドバイ」の話を通じて、詩を読むことに2種類あることを話した。繰り返しになるけど、名前の通った昔の詩人の詩をありがたく学びながら読むケースと、もうひとつ、すぐそばで書かれている生き生きとした詩に接するケースの2つだ。
その話の続きで今日の話を始めるとするなら、荒川洋治の詩って、僕にとってはその2つの詩の両方を兼ねている特異な部類に入る。
詩の世界では、これほど目立つ詩人はほかにいないわけで、時代を超えて読まれるべき傑作をもう書いている。それでいて、僕とは同世代で、1つ違いかな、同じ頃に同じ大学に行き、同じ社会の中で詩を、すぐそばで書いていた。だから、荒川洋治の詩を、僕は否応なく幾つかの側面から多面的に読んでしまうし、その読み方が正当なものかどうかを、僕は知らない。つまりは詩を読むって、自分で選び取れるものではなく、予め決められた読み方しかできないものだということ。
荒川さんは1949年に福井で生まれている。僕より1つ上。高校生の頃からその異才ぶりは有名だった。「化石の夢」という長い詩が、螢雪時代の投稿欄に全文載った。伝説的だった。
僕が荒川さんの名前を知ったのは、早稲田に通っていた頃。文学部の掲示板に「荒川洋治詩集『娼婦論』 小野梓賞受賞」という貼り紙があった。その時、夕暮れのキャンパスには強い風が吹いていて、僕は震える気持ちでその掲示を見つめていた。同じ大学で同じ空気を吸っているのに僕よりずっと先を歩いている人がいる。すでに立派な詩集を出し、なんて幸せな人かと、思いを馳せていた。
この『娼婦論』という詩集は出版元が「檸檬屋」となっている。この出版社は、荒川さんがはじめたものではないけれども、内実は荒川さんが動かしていたのじゃないかと思う。この出版社からは、郷原さんの詩集『カナンまで』や何人かの新しい詩人の処女詩集が出ていた。その流れが、荒川さんの出版社「紫陽社」につながってゆく。
当時一生懸命に詩を読んでいたものは、「檸檬屋」とか「紫陽社」から出ている詩集は、それまでの詩集とはどこか違った味わいを感じていた。一言で言えば身近さのようなもの。何しろ小ぶりに出来ていて、洒落ていた。中に入っている詩の篇数も、15篇ほどしかない。郷原さんがその頃「詩集は、寝る前に蒲団の中で読み切れるくらいのがいい」と言っていたけれども、つまりはそんな感じだった。
詩を書く、ということが書きっぱなしではなくて、どんな詩集にまとめて世の中に出すかまでを1つの行為として責任を持ちたいという、荒川さんの考え方がよく伝わってきた。大げさに言えば、詩人の役割がその頃から広がってきたわけで、それはまさに、荒川さんが残した足跡だと思う。詩人って、部屋の中で悩んでいるだけではダメだよと。
先月話をした詩誌「グッドバイ」を創刊して、各所の有名な詩人に送ったところ、真っ先に返事をくれたのが荒川洋治だった。一度会おうよということで、三橋と島田と僕で、御茶ノ水駅近くの喫茶店で初めて荒川さんにあった。有名な詩人に会うなんてめったにないことだから、すごく緊張していた。何を話したんだか、覚えていない。帰りに一緒に駅まで歩いて、夜の御茶ノ水駅で電車を待っている間も、僕は依然緊張していた。
僕よりもたったひとつだけ年上なのに、ずっと大人に感じた。それから親しくなり、毎週休みには、川崎の荒川さんの家に話をしに行くようになったけど、その関係性はずっと変わりがなかった。ほとんど同世代なのに、果てしなく先を歩いている人。最終バスの時間まで、荒川さんの長細い書斎で、本棚に凭れてよく話をした。「ではバスの停留所まで一緒に行こうか」と煙草を買いがてら、よくバス停まで送ってくれた。バス停では、さすがにもう話すことも尽きていて、だまって二人で立ち尽くしていた。
荒川さんの出した詩集をみてみよう。全詩集とか、まとめた詩集を除くとこんなふうになる。
荒川洋治の単行詩集
第1期
『娼婦論』檸檬屋 1971
『水駅』書紀書林 1975
『あたらしいぞわたしは』気争社 1979
『醜仮廬』てらむら 1980
『遣唐』気争社 1982
『針原』思潮社1982
第2期
『倫理社会は夢の色』思潮社 1984
『ヒロイン』花神社 1986
第3期
『一時間の犬』思潮社 1991
『坑夫トッチルは電気をつけた』彼方社 1994
『渡世』筑摩書房 1997
『空中の茱萸』思潮社 1999
『心理』みすず書房 2005
『実視連星』思潮社、2009
『北山十八間戸』気争社、2016
きちんと時間をかけて分析したわけではないけど、今回読み通した感じでは、詩集は3つの時期にわけられるんじゃないかと思う。上の一覧で第1,2,3期と分けたところ。
さっそく、それぞれの時期から1篇ずつ読んでみよう。
<第1期>から
「氷イチゴ」 荒川洋治
山くずれのおよぶのを怖れて
なかなかハシをつける気になれないのである
メロン、レモン、宇治から無彩
まで品数はほうふだが
生きている間は
どうしてもあの色に手がのびる
わが春秋にも久しく流れて地下を
あたためぬいた色だし
雪中行軍のくちびるへは入り
他者の色とみなされることもある
だからいったんは
山くずれを怖れておかねば
ならないのだ、それにしても手を
つける前からこうして血が
こおりの裾野をちりちりと燃やし
事態をあかく染めぬいてたち落す
このすみやかさは誰
ガラス器に盛られでた
この機に、あらわれでた
<第2期>から
小公女 荒川洋治
湖畔をわたる
五月の風はさわやか
おはよう小鳥さん
おはよう花の妖精たち
遠くでわたしを さそっている
小突いてくるのは
誰の笛の音?
五月の風はさわやか
湖畔に立って
ふわり一回り
ああ 誰一人いないしずかな
わたしだけの世界
ささめく思い
風は さわやか
小川のおもて
せせらぎも
名のしらぬ草花も 湖をとりまいて
五月の風はさわやか
振り向くと黒い水辺
ちょっとあそこで手を
洗って来ましょうか
ちょっと手を
あそこで洗っておきましょうか
振り向くと黒い水辺
ちょっとあそこを
洗っておきましょうか
洗うべきだ
<第3期>から
話 荒川洋治
尾崎紅葉は明治三二年の冬に
文学口演なるものを
日本で最初に行った
最初だから 目をのせるだけの
小さな椅子が並んだ
そのころは耳に楽しいこともいっぱいあった
そうではない人もおおぜいいたのだ
まずは十人、二十人の
やや健康そうな人たちが
椅子に加わり
目をのせかえながら こちらを見た
冬の冷たい風はなく
冷たい風にさそわれていた
口を開き 話をはじめる
冷えてゆけ 何もかも冷えてゆけ
子供のような椅子のまま
数多くの詩篇から大胆に選びだした3編だから、若干の無理はあるが、それでもその時期ごとの特徴の一面は荷なってくれていると思う。
読んでみればわかるように、3篇は現れ方は大いに違う。その長い詩歴の中で、一貫しているのは、荒川さんの詩というのは「本音の恋愛詩」だったと思うんだけど、それが表現の形になると、見え方が随分変ってきた。
僕が最も感じるのは、眼差しの向きだ。第1期の荒川さんは、詩を内側から書いていた。詩の世界の中で詩を作り、詩を変えようとしていた。与党内与党のようなもの。
でも、若くから詩を書きつづけていた人は多くそうなのだけど、そのうちに飽きてくる。自分の詩に飽きるだけではなくて、詩というものの概念に飽きてくる。そうするとなんとか違った形の詩を書きたいと思う。大抵の詩人は、変わりたいと思っても変われない。なぜかというと、詩の世界を信じ、その内側で変っているだけだから。
荒川さんは並の詩人ではないから、そんな生半可な変わり方ではだめだと信じていた。
それで何をしたかというと、それまでの詩をあざ笑った。バカにした。真面目くさって詩を書くという行為を否定した。つまり、詩を変えるためには、詩の外に出なければならないと思った。詩の外に出るためには、それまでの詩を壊さなきゃならない。脱皮だ。それが第2期。
見事に灰燼に帰した詩は、第3期へと書き継がれる。第3期の詩の特徴は、詩を、外から見て書いている。詩を書いている自分を小さな宇宙に閉じ込めて、これを俯瞰した位置から書いている。だから、ひたむきさはない。詩とはどういうものかを検証しながら書いている。
大胆に言うならば、第一期の詩篇は感動を目指したもの、第2期は呆れさせるために書いたもの、第3期は、感心されるために書かれたものといえないだろうか。
つまり、詩の内側で詩を信じて書いていたものが、詩の外側に出て詩を支配しようとしている。そんな感じか。
で、僕がここで考えてしまうのは、詩って、そこまでして書き続けなきゃならないものなのかということ。つまり、荒川さんの詩は、第1期で終わってしまったとしても、立派に成り立っている。そこから先を書き続けるかどうかは、もちろん詩人本人が決断することだけど、もし損得でものを考えるなら、やはり荒川さんはそれから詩ではないものだけを書いていたほうが、詩人としては得をしていただろうと思う。
でも、言い方を変えるならば、荒川さんでなければ、こんな変わり方を人に見せることはできなかっただろうし、詩を外から書くという行為の意味合いを、これほどに考えさせてくれる人はいなかったんじゃないかと、僕は思う。荒川さんに限っていえば、第1期で詩をやめる選択は、ありえなかったのだ。
だから、荒川さんの変わり様と書き続ける姿は、勉強にはなるけど、普通の詩人には参考にはなりそうもない。
長くなってしまったから、もうこれくらいにしよう。ベッドで書くのは限界。
病室の窓からは、小さな公園が見える。暑い日なので誰も遊んでいない。荒川さんと一緒に韓国旅行に行ったのはいつだっただろう。出会ってからさほど経っていない日のことだった。ソウルの大通りを晴れやかに歩いていた、若かった荒川さんの表情が、目の前の公園を見ていると、なぜか思い出されてくる。
(2017年 横浜の詩の教室で話をする予定だった原稿)
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