飾らずに書く

飾らずに書く

 茨木のり子さんは僕にとっては特別な詩人です。なぜ特別かと考えた時に、茨木さんの『詩のこころを読む』(岩波書店)という本を思い出します。岩波ジュニア新書の一冊で、今さら言うまでもなくすばらしい「詩の入門書」です。その中に、僕の書いた「顔」という詩が引用されています。とてもありがたく感じています。載せてもらえたことに晴れがましい気持ちです。
 ところが、この本が出た頃(もう四十年も前のことです)から僕はましな詩が書けなくなっていたのです。「顔」を書いたのは二十代でした。詩集が少し話題になって、今から思えばいい気になっていたのでしょう。詩作に関係のない余計なことばかりを考えていました。詩はこれからいくらでも書けるだろうという傲りもありました。心に余分な飾りをつけて書いた詩は、みな貧しいものばかりでした。
 詩がまた書けるようになったのは、もう五十代になってからのことです。友人も家族も、僕が詩を書いていたことなんて、すでに忘れていました。僕自身でさえそうでした。子どもが生まれ、仕事や子育てに忙しい毎日を過ごしていたある朝に、ふと思ったのです。「そう言えば僕は昔、詩を書いていたことがあったな。でもあの頃に、本当に書きたいことを書いていただろうか、後悔はないだろうか」と、にわかに思い始めたのです。このまま生涯を終えるのではなく、最後に一冊だけ、自分が真に書きたいことを書いてみようと、思いたったのです。何も飾ることのない自分の詩を書いてみようと思い、『きみがわらっている』(ミッドナイト・プレス社)という詩集を出しました。
 その時の思いを背中から押してくれていたのは、茨木さんの詩、「倚りかからず」でした。詩はひとりで書くもの、誰の助言も誰の褒め言葉もいらない。そういう気持ちで書けばいいのだと、茨木さんは教えてくれているようでした。この詩は僕の肩の力を抜いてくれました。

じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
                (「倚りかからず」より)

 「余計なことを考えずに、自分の力だけで書ける詩を書いてみなさいよ。「顔」のあと、あなたがどんな詩を書いたかを私は見ていますよ」という、お会いしたことのない茨木さんの声を耳奥に聴きながら、僕はまだ詩を書いています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?