ぼくのビートルズ

ぼくの年代の人(70代)が若い頃に、いかにビートルズに魅入られたか、なんて文章は、世の中にはいくらでもある。

それに、ほかの年代の人だって、ビートルズの音楽を聴いて、自分も何かを作ることができないだろうかと思って、創作の道に進んだ人だって、うんざりするほどいる。

だから、今さらぼくが、若い頃にビートルズの音楽に夢中になって、それで、リバプールにたむろしていたあの若者たちのように、自分にも何かできるかもしれないと思ったなんて、興奮して書いたって、なにほどのものでもないだろう。

ただ、これだけは言いたい、ということが一つだけある。

ぼくは、人からの受け売りではなく、ぼくだけの受け止め方で、ビートルズのよさや、モノの作り方を、ひとつひとつ、細かに、デリケートに、ゆっくりと、確実に、吸収して行ったという、そのことだ。

まあ、そんなことは、ぼくだけのことではなく、真に好きなものって、たぶん誰でもそうなのだろう。

だから、自分が特別だなんて思ってはいない。

ただ、ぼくがビートルズを好きだったのは、とても個人的に好きだったということを、あらためて言いたかっただけなのだ。

しつこいようだけど、ぼくは、「ビートルズ」対「多数のファンのひとり」として、のほほんとビートルズの曲を聴いていたわけではない。

常に、世界から締め出された個室で、相対して、「ビートルズ」対「ぼくというひとりの未熟な青年」として、苦しくなるほど敏感に、個々の声や音を聴いていた。

だから昨日、ポール・マッカートニーの写真展に行って、妙な懐かしさと親しみを感じたのは、単なるファンというよりも、(笑われるかもしれないけれど)勝手に、ポールやジョンを、若い頃の個人的な友人のように感じていたからだ。

たぶん詩も、同じことなのだと思う。

真に好きな詩人とは、「詩人」対「多くの読者のひとり」として、ぼくは向かってはいない。

勝手に、その詩人との個人的な付き合いのようにして、読んでしまう。

いつだって一対一なんだ。

ぼくの人生にこれほど割り込んできた詩人が、大切な友人でなくて、なんだろう。

当たり前のことではあるけれども、好きな詩人は、世間がだれを評価しようとも、人がなんと言おうとも、自分の目で、自分の心で、しっかりと選びとってゆく。

その行為の純粋さが、自作に沁み込んでゆくのだと思う。

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