「捧げた詩」ー 辻征夫さんのこと

「捧げた詩」

この世は大きいと思います。そのとてつもなく大きなこの世の信頼の水位を、この世全体の信頼の水位を、その人が生きているというだけで少し上げてくれる、そんな人がかつていました。

辻征夫さんにはじめてお会いしたのは、正確には受賞記念パーティーでした。しかし、きちんと話をしたのはそれから数年後、詩誌「詩学」の投稿欄の選者をしたときでした。その選者のメンバーの一人に、辻さんもいたのです。
根津か湯島か、今では正確な場所を忘れてしまいましたが、東大近くの大通りを左に折れて、小さな道を少し行った左手に「詩学社」がありました。会社の仕事を終えて、月に一度、その小さな事務所へわくわくする思いで向いました。そこで一年間辻さんとご一緒しました。貴重な体験でした。投稿詩に対する意見は、時として私のものと大きく離れることもありましたが、どこがどう違うのかということを、学ぶ場になりました。詩にかぎらず、辻さんの話は文学全般から社会問題にまでわたり、毎月一度のこの仕事ほど楽しく感じたものはありませんでした。

辻さんは歳を重ねるにしたがって、創作の密度が濃くなっていきました。若い頃は、名前はよく知られていましたが、谷川さんのそばにいる、清潔な詩集を持った詩人という印象でした。その詩に含まれた重い芽を、しかし、だれもが予感するような、そのような詩でしたが。

その芽を徐々に花開かせたのは、言うまでもなく辻さんご自身です。その間、どのような経緯があってどのようにみずからを育て上げたのか、わたしにはわかりませんが、ともかく晩年になってからの旺盛な創作は、その質量ともに誰もが目を見張るものでした。

柔道だったか剣道だったか、辻さんが武道をやっていたということは、その詩の理解につながります。辻さんの詩は、背筋の伸びた、男の感性の凝縮です。微動だにしない乾いたやさしさを、どの詩にも感じます。

晩年は小説のほうにまで手を伸ばしていましたが、その歩をさらに進めようという時に、この世からいなくなりました。

辻さんが亡くなった後のある春先に、池袋のビアホールで詩人何人かが集まったときに、辻さんの話になりました。「辻さんが小説を書き始めたのは、辻さんの命を縮めたひとつの要因ではないか。小説を書くということは、それほど消耗することだから」と、ある詩人が言っていたことを思い出します。

それが真実なのかどうかはわかりません。しかし、今になって思えば、辻さんは自分の死期を知っていたかのように、その命の「締め切り」に向って激しく仕事をしました。

時々、辻さんが生きていたらあれからどのような仕事をしただろうと、想像することがあります。不遜な言い方をするなら、そのうちのいくばくかでもわたしたちは継いでいかなければならないのだと思います。

私がついていきたいと思った、数少ない詩人のうちのひとりでした。しかし、顔を上げたらもう、辻さんはわたしの前にはいませんでした。

しかしそれでもわたしは、辻さんのあとをついて歩いているのです。いなくなった辻さんのあとを。

「桃の節句に次女に訓示」という詩を読んでみましょう。私はこの詩をもとに「にぎる」という詩を作りました。辻さんに捧げる思いでつくりました。もちろん詩の出来は、辻さんの足元にも及びませんが。

桃の節句に次女に訓示     辻征夫

なくときは
くちあいて
はんかちもって
なきなさい
こどもながらによういがいいと
ほめるおじさん
いるかもしれない
ぼくはべつだん
ほめないけどね

ねむるときは
めをとじて
ちゃんといきして
ねむりなさい
こどもながらによくねていると
ほめるおじさん
いるわけないけど
とにかくよるは
ねむりなさい

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