わたしの詩を読んでください

ぼくには、詩を書いて発表するというときに、どうしても頭にこびりついている情景があるんです。

ずっと昔のことです。ぼくが学生の頃のことです。新宿駅西口で、路上で、人が多く通りすぎる脇で、道端で、「私の詩を読んでください」と書いた札を立てて、そこに座っている女性がいました。自分の(たぶん手作りの)詩集を何冊か並べているんです。当時はぼくも詩を書いていましたけど、「ああすごいな、勇気があるな」と思ってその傍を通り過ぎていたんです。でもぼくにはあんなことはできないなと思って、ホントは立ち止まって、「どんな詩ですか」と、ひとこと言ってあげて、手に持って、詩を見てみたいという気持ちはあったんです。でも、ぼくには勇気がなくてそんなこともできなかったんです。ホントはそうしたかったんですけど、何の興味もないフリを装って、通り過ぎてしまいました。

でも、今でも思うんです。詩を書いて人に読んでもらおうとする時に、あの女性の行為を思い出すんです。あの行為って、なんというか、書いたものを人に読んでもらいたいという時の、原点であるように思えてしまうんです。そうであるべき行為のような気がするんです。

私は私の能力の中で、それでも一生懸命に詩を書きました。だれでもいいんです、どうぞ一度手にとって読んでください、と歩いている人に訴えているんですね。訴えていると言っても何を言うわけでもない、「私の詩を読んでください」と札に書いてあるだけで、ただ誰かが立ち止まってくれるのを待っているんです。ずっと待っていれば、たぶんその内に誰かが、立ち止まってくれるんだと思うんです。そしてその誰かこそが、めったにいないかもしれないけど、日本のどこかにいる、名もない人の詩を読んでくれる特別な人であるわけです。そしてもしかしたら、その立ち止まってくれる人こそが、その詩の良さを心からわかってくれる人かもしれないんです。

詩を届けるってそういうことなんだと、今でも思うんです。

今は、詩を発表する媒体はいろいろあります。こうしてネットに気楽に書き込むこともできます。けれど、どうしてもぼくは、路上で詩集を売っている勇気のある女性の行動を思い出してしまうんです。そして、詩を見せるということのオオモトの意味は今でも何も変らないのではないかと思うんです。

詩集にしても、詩誌にしても、ネット詩にしても、みんな心のどこかで思っているのです。「私は私の能力の中で、それでも一生懸命に詩を書きました。だれでもいいんです、どうぞ一度私の詩を手にとって、読んでください。」

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