2024年3月28日(木)亡くなったのちの詩集

このところ疲れ方が以前よりもひどくなったと感じる。30分ほどの散歩から帰ってきただけで、ソファーに倒れ込んでしばらく横になっている。調子が悪いのか、歳のせいなのか、わからない。

ところで、自分の欲だけのためのおこないは、結果として、何かが欠けてしまうように感じる。自分のためだけでなく、まわりの誰かのため、あるいは何かのための志が少しでも含まれている詩作は、それだけで生まれた価値を持つ。そんなふうに感じる。

茨木のり子さんには『歳月』(花神社)という詩集がある。この詩集はご自身が出版したのではなくて、茨木さんが亡くなった後に、甥御さんによって出版されたものだ。

というのも、内容が、先立ったご亭主への恋歌だったから、照れくさくて自分では出せなかったもののようだ。恋愛詩でさえも、きりっと背筋が伸びている。朝のテーブルでこの詩集を読んでいて僕は、うかつにも涙を流してしまった。

先日のnoteの日記に、菅原克己さんの詩は誰かのための詩が多いと書いたけれども、茨木さんのこの詩集は、まさに亡くなったご亭主に向けて書かれた詩だ。

自分の栄誉や欲のために書かれた詩が持ちえない気品を、感じる。

では、短いものをいくつかここに。



占領  

姿がかき消えたら
それで終わり ピリオド
とひとびとは思っているらしい
ああおかしい なんという鈍さ

みんなには見えないらしいのです
わたくしのかたわらに あなたがいて
前よりも 烈しく
占領されてしまっているのが





わたしのなかで
咲いていた
ラベンダーのようなものは
みんなあなたにさしあげました
だからもう薫るものはなにひとつない

わたしのなかで
溢れていた
泉のようなものは
あなたが息絶えたとき いっぺんに噴きあげて
今はもう枯れ枯れ だからもう 涙一滴こぼれない

ふたたびお逢いできたとき
また薫るのでしょうか 五月の野のように
また溢れるのでしょうか ルルドの泉のように



電報

オイシイモノヲ サシアゲタシ
貴公ノ好物ハ ヨクヨク知リタレバ

ネクタイヲ エランデサシアゲタシ
ハルナツアキフユ ソレゾレニ

モットモット看病シテサシアゲタシ
カラダノ弱点アルガゴトクアラワニ見ユ

姿ナキイマモ
イマニイタルモ

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