2024年7月28日(日)投稿に落ちたことは無駄ではない。

暑い日が続きます。気楽に外出ができません。ここ当分は、家の中でうろうろしていようと思います。

本日は久しぶりに留守番で、朝から点ちゃん(文鳥)と二人きりです。

なので今日は、原稿を書いたり、「詩の教室」の準備を楽しみながらやっていようと思います。

ところで、たまに思い出すのが、昔、若い頃に詩を投稿していたことです。

ぼくは一時期、必死に詩を書いて、いくつかの雑誌に投稿していました。

それで、何度か入選したりはしたんですけど、今思い出すのは、なぜか、落ちた時のことばかりなのです。

あの頃、雑誌の発売日を意識しないようにしていても、ふと思い出して「あと何日か」と、ドキドキし、その日がとうとうやってきて、会社の帰りに本屋に向かいました。焦る気持ちをおさえながら駅ビルの中の大きな本屋の文学雑誌のコーナーへ辿り着けば、どれほど沢山の雑誌が並んでいても、すぐにその雑誌が目に入ってきます。

真新しい表紙に触れて、目次を眺めるまでもなく、後ろの方のページを繰れば、投稿欄の結果がすぐに見つかります。

それで、今でも思い出すのは、「ああ、今月もダメだったか」と、がっかりして肩を落としている自分のことなのです。なんだかその姿を、後ろから見ていたかのように、はっきりと自分の落胆ぶりが見えてくるのです。

不思議なのは、今月こそはと期待していた時ほど、落ちていたように思えることです。むしろ、もうどうせだめだろうと思って、あきらめて、やぶれかぶれの変な詩を送った時に、なぜか入選したりもしました。

そんな時には、人間、期待しない方がいいのか、と思ったりもしましたが、それは無理というものです。

でも、幾度もがっかりして、自分の限界を知り、書くことの意味を考え、それでもやっぱり書いて行きたいとあらためて思い、ではどうしたら自分の詩は少しでも人に伝わることができるかと真剣に考えたことは、その後の人生にとって、決して無駄ではなかったと思うのです。

落ちたから知ったこと、落ちたから見えたことは確実にあり、それが今のぼくを支えてくれてもいるのだと思うのです。

さて、暑い外に囲まれながら、もう何十年も前の、投稿で落ちた時の僕を思い出して、本日は、ゆったりと、楽しみながら詩の話の原稿を書いていようと思います。

もうすぐ74歳、期待しないといって、今ほどなにも期待していない時はありません。ただひたすらに詩の仕事をこつこつと続けたいと、それが唯一の期待と言えば言えます。

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