2024/08/16(金)どこにでもいる内気な人
ぼくは詩を読んで、詩の感想を書く、ということを毎日している。それで、たまに外へ出て、人前で、詩についての話をすることがある。
だからだろうけど、何かで紹介される時には、最近はたいてい、「詩人の松下育男さん」と呼ばれる。
つまりは物書きだと見られている。
ただ、実のところ、物書きと言われるほどには、本を読んできたわけではない。
好きな詩は読んできたけど、詩人と言われるほどには、あまねく詩を読んできたわけではない。
また、大学も経済学科だったので、学校で文学をしっかり学んだこともない。だから哲学的なむずかしい本なんて読んだことはない。好きな本を気まぐれに読んできただけだ。
そんな人だ。
だから、ぼくはいつも、「詩人の松下育男さん」と紹介されるたびに、「ほんとはそんなものではないのだけどな」、と感じてきた。
「詩人の」、なんて人から呼ばれると、なにか、自分が特別なものであるかのように勘違いしてしまう。
よくないな、と思ってしまう。ぼくは特別なものなんかではない。
なにをやっても不器用で、いつも人を羨んできた、どこにでもいる暗い性格の人だ。どこにでもいる内気な人だ。
でも、それではぼくは、自分のことをなんと呼ばれたいかと言われても、困ってしまう。
石垣りんさんの詩にも、「様」とか「殿」をつけられるとろくなことはない、というような意味の詩があったけど、ぼくも同じだ。
別に、詩人と言われるのを拒否するというほどのことでもないけど、どちらかというと、石垣さんのように、
松下育男、ただそれだけでいい。
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