無名性の尊さ ー 茨木のり子さんのこと

無名性の尊さ 


誤解を恐れずに言わせてもらうなら、茨木のり子さんの詩というのは、朝起きて「今日は茨木さんの詩を読みたいな」という気持ちのおきるようなタイプの詩ではないのではないかと、思うのです。むしろ、日々の雑事の中でふっと詩が目にとまる、するとその目がそこにとどまって、どんどん引き込まれていってしまう、そのような詩なのではないかと、思うのです。甘そうなにおいや、人をひきつけるためのトリックなど、どこにも用意されていない、なにものにも媚びることのない、あるがままの詩なのではないかと。


それはおそらく、茨木さんご自身がそのような作品をめざしていたためなのではないでしょうか。作品に色をつけることを好まない。あるいは、こんなタイプの、こんな毛色の詩人だと、くくられるのをあくまで嫌った、結果なのではないかと。


茨木さんの詩の中に使われている言葉は、あくまでも日本の小さな国語辞典の中の言葉です。小さな国語辞典に載っている、その意味にのっとった使われ方です。作者が勝手に個性という付加価値をつける、などということをしていません。言葉はいつでも、洗い立ての下着のようなすがたで、現われてきます。作者の汗や、涙が染み付いている多くの現代詩とは、あきらかに違います。

そしてそのような創作の方法というのは、おそらく、最も困難な道なのです。この人はこんな詩を書くのだという、了解のもとに書き継がれる詩、というのは、一見個性豊かな世界に見えますが、言い方を変えるなら、そのような世界は、作者と読者が作り上げた、温かで心地のよい世界なのです。茨城さんは、そのような安易な道を選ぼうとは、しませんでした。


茨木さんの詩には、その詩の数だけ、茨木のり子がいるのだと、思うのです。新しい詩を書き始めるときには、ですから、茨木さんの前には、事前になにも用意されていなかったのではないでしょうか。どんなに多くの読者を獲得し、その詩が賞賛された後にも、茨木さんが新しい詩を書くときには、いつも新人が投稿を始めるときのように、なにも用意されていなかったのではないかと思うのです。


茨木さんがその創作の始まりを、「投稿詩」にもったことと、それは無縁であるとは思えません。しかし、多くの詩人は投稿からその創作をはじめても、月日とともに、経歴や、個性の上にどしんと座り込んだ詩を、書きはじめてしまいます。でも、茨木さんはちがいました。書くたびに、新しい茨木のり子をつくりだすべく、一から始めていたのです。いいえ、それも違います。茨木さんは、「茨木のり子の詩」を書こうなどとは、露ほども思っていなかったのかもしれません。ただ、「詩」を、単なる詩を、書こうとしていただけなのです。


作品の無名性の尊さ、というものを、茨木さんの詩からいつも感じます。一篇は一篇としての自負心を持ち、作者の名にも「倚りかからず」、他の自身のすぐれた一篇にも「倚りかかっていない」。そのように、感じるのです。


詩はだれに読まれるべきか、という問いに対する答えも、茨木さんは身をもって示してくれたように思います。詩の世界にどっぷりと浸かった人たちの鑑賞にも耐え、そうではなく、詩を書かず、めったに詩を読まない人たちの鑑賞にも、同等に耐えられる詩、というものを私は、茨木のり子さんの詩に、しっかりと見ることができるのです。むやみに詩の世界に凝り固まることもせず、かといって、読者にへつらうような、ただわかりやすく、あまったるい詩を書くのでもなく、詩、自身が選び取るべき作品のありかたというものを、私は多く、茨木さんから学んだような気がします。


「何をくだくだいっているのよ」という、茨木さんの声が聞こえそうです。私は茨木さんに、生前、一度もお会いしたことはありません。しかし、茨木さんがかつて山之口獏に会えなかったことを悔やんだようには、わたしはそのことを残念には思っていません。茨木さんの詩を読めば、それで十分だという気持ちになります。読むたびに、詩はどうあるべきかという姿を示されているような気がし、背筋が伸びます。読者も、詩人も、作品の中では、あくまでも健康であるべきであり、自身に酔うことなく、明晰な意識のもとで、どうどうと詩を書けと、しずかに教えられているような気がします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?