2023年12月31日(日)詩が書けることの喜びに、詩のすべてがある
大晦日だ。昨日はお正月の買い物に行ってきた。静かな一日だった。家の中に人が増えて、点ちゃんもどこか嬉しそうだった。
ところで、詩を書く人というのは、多くは、生きてゆくことのうまくできない人なのだと思う。自分がそうだったから、ずっと感じてきた。
ぼくも子供の頃から、生きるのが不器用だなと、自分で感じてきたし、自分には何ができるだろう、どうして自分はダメなんだろうと、ずっとうなだれてきた。
そんな人は、人と、よりも、自分の言葉と仲良くなってゆく。言葉は決して自分を裏切ることがないから、いつも自分の言葉と遊び、自分の言葉と二人きりになっていた。
それで、いつか自然に、詩を書き始める。
そうすると、たまに、詩がちょっと誉められることがあって、「ああ、わたしには詩が書けるのだ」と、かすかな自信が生まれる。
それまで、うまく生きてこられなかったし、誉められることなんてなかったから、誉められることに慣れていないから、有頂天になってしまう。自分は詩が書けるのだと、喜びに打ち震えてしまう。詩を書くことは、不器用な自分のできる、最後の、土俵際のようなものになる。生きることそのものになってしまう。
だから、そこでとどまって、一生、土俵際で楽しく詩を書けていれば、なんの問題もない。
問題なのは、詩を書くことで、自分がなにものかであると思い込み、人が変わってしまうことだ。人に勝ちたいと思い始めることだ。
ぼくにも経験があるのだけど、詩を書くことで、詩とは関係のないことにまで、多くを望もうとしてしまうことだ。きりもなく欲が深くなってしまうことだ。
すると、いつのまにか、ホントの自分を見失ってしまう。詩もダメになってしまう。
だから、詩を書くことは、自分と詩の、ふたりだけの、ひそやかで、大切な関係だということを、それだけのものだということを、常に思い出したい。
詩が書けることの喜びに、詩のすべてがある。
忘れずに生きてゆきたい。
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