「現代詩の入り口」26 ー 詩を書いてきた自分とは何かと考えるのなら、小池昌代を読んでみよう

小池昌代さんの詩を読みます。

今回読むのは小池昌代さんの詩11編です。

りんご (『水の町から歩きだして』)
あたりまえのこと (『青果祭』)
永遠に来ないバス (『永遠に来ないバス』)
おんぶらまいふ (『もっとも官能的な部屋』)
きょう、ゆびわを (『夜明け前十分』)
路地 (『雨男、山男、豆をひく男』)
30 (『地上を渡る声』)
針山 (『ババ、バサラ、サラバ』)
最後の詩 (『コルカタ』)
出国 (『野笑 Noemi』)
雨を嗅ぐ (『赤牛と質量』)

それでは。


小池昌代さんの詩を読む(1)りんご

りんご (詩集『水の町から歩きだして』より)

ところで
きょうのあさは
りんごをひとつ てのひらへのせた

つま先まで きちんと届けられていく
これはとてもエロティックなおもさだ

地球の中心が いまここへ
じりじりとずらされても不思議はない
そんな威力のある、このあさのかたまりである

うすくあいた窓から
しぼりたての町並がこぼれてくる と
どこかで とてもとうめいな十指が
あたらしい辞書をめくるおと
おもいきりよく物理的に
とんでもないほどすがすがしく
わたしのきもちをそくりょうしたい
そんなあさ
りんごはひとつ てのひらのうえ
わたしはりんごのつづきになる

なくなったきもち分くらいのおもさ か

あのひとと もう会わない
そうして
きょうのあさは
りんごをひとつ てのひらへのせた

「りんご」について     松下育男

この詩は、目の前にあるリンゴについて書いていますが、ずっと読んで行きますと、実はそうではなく、目の前にいないもののことを書いているのだということがわかります。

いないものとは、(好きだった)「あのひと」のことです。

あの人がいなくなったので、そこにあったあの人の重さにつり合うように、朝からリンゴを掌に乗せているのです。あの人につり合ってしまうのですから、「エロティックなおもさ」のリンゴなのです。

どうしてもいなくなってしまった人のことを思ってしまいます。ですから、あの人に傾いてゆく気持ちのバランスをとるように、てのひらにリンゴをひとつ、乗せたようです。

つまりわたしは朝から秤になって、片方の手にリンゴを、もう片方の手にあの人を乗せているようです。

秤だからバランスをとろうとして揺れるのです。揺れて仕方がないので、「とんでもないほどすがすがしく/わたしのきもちをそくりょうしたい」ということにもなるのです。

それにしても、この詩の言葉のみずみずしさはなんと見事かと思います。

「うすくあいた窓から/しぼりたての町並がこぼれてくる」。

こんな詩行が書けたなら、自分の詩を目の前に置いて、当分うっとりとしていられるのだろうなと、ぼくは考えるのです。


小池昌代さんの詩を読む(2) 「あたりまえのこと」

あたりまえのこと     (詩集『青果祭』より)

男の大きな靴をはいてみた。ら、あまってしまって。
それがまた、がぼがぼ、というような、えらくひどいあ
まりかた。なので、あまってしまう、ということは、こ
んなにも、エロティックなことだったか、と思うのだ。
それにしても、と、この大きさを満たしている男の足
を思ってみる。あのひとの日常。
それにしても、と、今度は又、自分の小ささに戻って
みる。
知らないうちに、からだが、勝手に貸し出されていた
ような気分である。
さきっぽに届かないつま先が、なんだか、むずがゆく、
あたらしい。
ひとの靴のなかに、自分の足を入れてみる。そして、
ぬいでみたりもするなんて。それから、そのようなこと、
別に男に言うほどのことではない、などと考えている。
そのこと。
そのことさえ、たぶん、とてもエロティックなことな
のだわ、と考える。さきほどの。男の靴。

「あたりまえのこと」について 松下育男

歳をとってきたせいか、電車に乗って座席に座れた時にはほっとします。しばらくは楽ができると安心します。けれど、どうも楽ではないなと感じることがあります。座席が狭いことがあるのです。なぜこんなに窮屈なのだろうと、横を見ると、並んで坐っている人がみな男なのです。そうか、だから狭いのか、ここに一人でも女の人が入っていたら、これほど窮屈にはならないのに、と思います。そんな時に、男と女の大きさは違うのだ、ということにあらためて気がつきます。

そして、大きさが違う、というのは、いろんなことを思わせてくれます。男は女を見てその小ささに驚き、女は男を見てその大きさに驚く、その驚きは、自分にないものを相手が持っているという驚きであり、人には、自分にないものに惹きつけられるところがあるようにも思います。

この詩では「あまってしまう」ことにこだわっています。なるほど、あまってしまう、というのは、靴の中の足だけのことではないようにも感じられます。このあまってしまうことを、この詩では「エロティックなこと」としてとらえています。

一人の人のあまってしまう部分を埋めることができるのは、自分ではない大切な誰か、なのです。

男の大きな靴を履く。そしてその大きさの違いに気づく。その気持ちはどこからきて、どこへ向かうのか。この詩をじっくり読んで見れば、鈍感な男にも少しはこの世のことが、わかってきます。


小池昌代さんの詩を読む(3) 「永遠に来ないバス」

永遠に来ないバス     (詩集『永遠に来ないバス』より)

朝、バスを待っていた
つつじが咲いている
都営バスはなかなか来ないのだ
三人、四人と待つひとが増えていく
五月のバスはなかなか来ないのだ
首をかなたへ一様に折り曲げて
四人、五人、八時二〇分
するとようやくやってくるだろう
橋の向こうからみどりのきれはしが
どんどんふくらんでバスになって走ってくる
待ち続けたきつい目をほっとほどいて
五人、六人が停留所へ寄る
六人、七人、首をたれて乗車する
待ち続けたものが来ることはふしぎだ
来ないものを待つことがわたしの仕事だから
乗車したあとにふと気がつくのだ
歩み寄らずに乗り遅れた女が
停留所で、まだ一人、待っているだろう
橋の向こうからせり上がってくる
それは、いつか、希望のようなものだった
泥のついたスカートが風にまくれあがり
見送るうちに陽は曇ったり晴れたり
そして今日の朝も空へ向かって
埃っぽい町の煙突はのび
そこからひきさかれて
ただ、明るい次の駅へ
わたしたちが
おとなしく
はこばれていく

✳︎

「永遠に来ないバス」について    松下育男

書かれていることは、朝のバスを待っていて、バスがやってきて、乗った、とそれだけのことです。

それだけのことですが、その様子がまざまざと描かれ、そしてそのことによって出てきた思いにとらわれている様子が、見事に描かれています。

時に、読みながら、いいな、とうっとりとしたり、時に、はて、と立ち止まったりしてしまいます。

いいな、と明確な魅力にうっとりしたところは、
「首をかなたへ一様に折り曲げて」
「橋の向こうからみどりのきれはしが
どんどんふくらんでバスになって走ってくる」
「待ち続けたきつい目をほっとほどいて」
「埃っぽい町の煙突はのび」
など、たくさんあり。

はて、と不思議な魅力に立ち止まったところは
「五月のバスはなかなか来ないのだ」
「来ないものを待つことがわたしの仕事だから」
などです。

ところで、

「乗車したあとにふと気がつくのだ
歩み寄らずに乗り遅れた女が
停留所で、まだ一人、待っているだろう」

とある、この女とは、バスに乗った女自身なのだろうと思うのですが、「歩み寄る」なんてことは、通常バスに向かってする行為ではなく、おそらく、大事な人に向かって歩み寄らなかったということなのでしょう。

それを、恋愛対象と見るか、あるいは、仕事上の大きなチャンスと見るか、読む人が勝手に考えてもよいことなのかなと思います。

この詩を読むと、自分もあの時に、がむしゃらに向かっていかずに後悔したことを、いくつか、思い出すのです。

はやく来ないかと待つこのバスは、いったい何を意味しているのでしょう。この詩を読む人が、それぞれに決めることができます。

繰り返し読みたくなり、読むたびに違う思いにとらわれてしまう、とても深くて、とても好きな詩です。


小池昌代さんの詩を読む (4) 「おんぶらまいふ」

おんぶらまいふ    (詩集『もっとも官能的な部屋』より)

ふかくあいしあったので私たちはけっこんした
のではなかった
彼も私も そのころもやっぱり ひりひりするほどひとりで

いっしょにくらしましょう
あなたのみかたになってあげる
ひとりのにんげんにひとりのたしかなみかたがいれば
いきていかれる
まなざしのきれいな なまいきな弟のようなあなたよ

かならずしも お互いがお互いでなくてもよかったのかもしれないのだ
けれども どこかこころの深いところに
雨粒のようなりゆうがひとつ
ふいにおちてきたような すばやさで
私はいくことを決めていた

えらぶことなんてできるのかしら ひとをえらぶなんて
そんな おそろしいこと不遜なこと
ならば 事故のように出会おうとおもう
おんぶらまいふ(なつかしい木陰よ)

老夫婦たちがふたり並んで歩いていく姿は
この世で見たいちばんうつくしい風景だった といって
グレタ・ガルボは死んだ
目のくらむような永い年月を 一人の男に一人の女に
よりそっていくことが どういうことか
そのとき私には想像ができなかった

ある朝
大きな翼をひろげて鳥が
私の胸に降り立ったのだ
びっくりしてはねおきたら
それは鳥ではなく 男のおもたい右腕だった
そのとき私はすくなくとも
すくなくともこんな種類の朝ははじめてだ としずかなきもちでかんがえていた
おんぶらまいふ(なつかしい木陰よ)

目がさめると そばにひとがいた
触ってみるとあたたかかった
そして とびきりびんぼうだった

✳︎

「おんぶらまいふ」について    松下育男

恋愛している人がよく言う言葉に、「君を愛するためにぼくは生まれてきた」とか、「君と僕は、巡りあうことになっていた」とか、「来生も一緒になりたい」というのがあります。

でも、そんな都合のいいことはないわけで、誰と誰が結ばれるかなんて、当人だけではなく、神様(がいたとして)にだって分かりません。そんなことは、誰でも知っていることです。それでも、つい夢見心地になって、そんなことを言ってしまいたくなるのでしょう。

さて、この詩はもっと現実的です。「かならずしも お互いがお互いでなくてもよかったのかもしれないのだ」と書いています。なんだかそっけない言い方ですが、そっけないかわりに、ずっと確実な幸せを、手に入れているように思えるのです。

あなたがすべてだと、全身でもたれ掛かるのではなく、自分は自分で立ち、相手も相手の場所で立ち、双方が頼りすぎずにともに生きて行くことの喜びが書かれています。

全身でもたれ掛かるかわりに、「なつかしい木陰」のような、相手の腕一本に、たまに触れることが、結婚の意味であると言っています。

よくわかるなと思います。

それでも、このめぐり逢いに全く意味がないわけではなく「どこかこころの深いところに/雨粒のようなりゆうがひとつ」あったのだと書いてあります。

同じ形の雨粒がひとつもないように、結婚の理由も、自分だけが感じることのできる理由が、きっとあるのでしょう。


小池昌代さんの詩を読む (5) 「きょう、ゆびわを」

きょう、ゆびわを   (詩集『夜明け前十分』より)

「きょう、ゆびわを」
と言いかけて
彼が立ちあがった
きょうは、クリスマスである。
その背中に
(「あなたに、買った」)
と構想を重ねたが
人生は
「道で拾った」
と続くのだった
指にはめるとぐらぐらとまわった
小さなダイヤとサファイヤの。
「けいさつに」
届けるべきだろうか?
そんなことは知らない
がっかりしたので
「がっかり」と言った
彼は
「え? なに? なに?」と言いながら
ゆびわの今後に余念がない
持ち主は
ふっくらとした
やさしい指をした女にちがいない
わたしと
彼と
見知らぬ女と
その日
ゆびわのまわりには
ゆれうごくいくつかの感情があり
拾われて
所有者を離れたゆびわのみが
一点、不埒に輝いている
「きょう、ゆびわを」
「いためて食べた」
でも
「きょう、ゆびわを」
「みずうみで釣った」
でもなく
なぜ
「きょう、ゆびわを、道で拾った」のだ?
わたしはふいに
信じられないことだが
この簡単な構文に
自分が感動しているような気がした
ひとが歩き、ひとが生きたあとを
文が追っていく
なんということだろう
そして
あのひとが
「きょう、ゆびわを」
と言ったあと
そのあと
一瞬、訪れた、深い沈黙
文ができあがる
私に意味が届く
私をうちのめし、私を通りすぎ
生きられたことばは
すぐに消えてしまう
私はあわてて紙に書きつける
しかしそれは
どこからどう見たとしても
平凡でありきたりな一文だった
「きょう、ゆびわを、道で拾った」

✳︎

「きょう、ゆびわを」について    松下育男

この詩でぼくが好きなのは、「持ち主は/ふっくらとした/やさしい指をした女にちがいない」のところです。もっと前に、自分が「指にはめるとぐらぐらとまわった」とあり、普通なら、自分よりも太い指をしている、とか、大きな手をしている、とか、言うだけなのでしょうが、そうではなく、「やさしい指」と想像するところが、なんともあたたかな想像力だなと、感じさせてくれるのです。

ところで、この詩は、クリスマスに彼氏が指輪を差し出して、「きょう、ゆびわを」と言ったところで、てっきり自分のために買ってくれたのだなと思ったら、そうではなかったということです。

詩の中に「ひとが歩き、ひとが生きたあとを/文が追っていく」というものの見方は、とても面白いと思います。

つまり「指輪を買わなかった」という「生きたあと」を「指輪を道で拾っただけで、あなたに指輪を買ったわけではない」という「文」が追っています。

そんなことは当たり前なのですが、こうして「文」に書かれると、それが当たり前ではない順番のように見えてくるから不思議です。

なんだか、「きょう、ゆびわを道で拾った」という文が、この世の中に先にあって、だから彼はきょう、ゆびわを買わなかったというふうにも思えてきます。

ずっと詩を書いていると、言葉や文が自分の中で現実よりも生きてきてしまって、現実よりも生身を持ってしまうことがあるものです。

たかが言葉、たかが想像力、たかが詩ですが、現実よりも優先順位が低いなんて、とても思えなくなってきたら、あなたはもう、間違いなく詩人という病にかかっています。


小池昌代さんの詩を読む (6) 「路地」

路地   (詩集『雨男、山男、豆をひく男』より)

素早く走り去る電車から見えた
あの小さな路地は
どこへ伸びていくのだろうか
おそらく
わたしが一生
迷い込むことのない小さな路地
そこで
すれ違うことのない人々
見ることのない家並み
嗅ぐことのない魚を焼く匂い
ひとつ、ひとつ
あり得ぬものを並べていく
すると、ふいに、ありありと
ほかのどんな道よりも親しい表情で
ひとつの路地が立ち現われる
今度は
わたしにも見覚えのある
確かな悲しみまでも連れて。
そこに立つ後ろ向きのわたし
坂道を下り
日没を追いかけ
いくつも橋を渡り
どんどん、遠くなる、小さくなるわたし
やがて行きついた路地の奥から
蓋をとったように産声があがる
暑い七月
わたしの生まれた日
打ち水が往来にきらきらとひかっている

✳︎

「路地」について     松下育男

だれもが感じることなのに、それについて書いたことがない、ということがあります。詩に書くことって、ありえないことを作り出すことでも、めったにないことを書く事でもなく、いつも経験していることなのに、それは書くに値するものだと気付いていないことなのかもしれません。

冒頭の「素早く走り去る電車から見えた/あの小さな路地は/どこへ伸びていくのだろうか」のところを読んで、ああこういうことって確かにあるなと、思ってしまいます。

あの路地の向こうにどんな風景が広がっているのだろう、だれがひそと歩いているのだろう。どんな家並が続いているのだろうと、何度も思ったことがあります。でも、この一瞬の思いは、これまで幾度も経験してきたのに、詩に書けることなのだと、ぼくは気付くことができませんでした。

だれもが見てきたことなのに、それと気付くことができる。それってすごいなと思うのです。

でも、この詩がすごいのはそれだけではなくて、単に路地の奥を想像するだけではなくて、ありありとひとつの路地を目の前に描き出していることです。そしてその路地をずっと歩いていって、自分が生まれた現場に立ちあう、というなんともドラマチックな展開になっていることです。

そうか、電車から一瞬見えていた路地の向こうには、こんな自分が密やかにいたのかと思えば、路地ごとに、さまざまな年代の自分が、生きているようにも思えてきます。

生きているというこの、連続する時間というものはいったいなんだろうと、この詩を読むと思うのです。皆目わからないことだらけの命の秘密ではあるのですが、同時に、わたしにとっては、「きらきらとひかっている」ものでもあるのだと、思いもするのです。


小池昌代さんの詩を読む (7) 「地上を渡る声 30」

地上を渡る声 30 (詩集『地上を渡る声』より)

いつも淋しげで
それでいて気が強そうで、
輪のなかにうまく入れない、でも入れればいいなあと思っているような坂本さんが、保育園の親子交流会の自己紹介のとき
うまく輪のなかに入れればいいなあと思っています、と主語ぬきで(入れないのは、子供なのか坂本さん自身なのか、わからないような言い方で)言ったので、
あ、と思い、わたしのなかに
紐が解けるような柔らかい気持ちがひろがった。
坂本さんは有名な俳優の奥さんで
(みんなそれを知っているがあえて話題にしない)
長女のはるちゃんは
坂本さんによく似た目の大きな子供。
ほとんど言葉をしゃべらない。
おまけにちょっと淋しげで
孤独な感じが漂っているのも、母親に非常によく似ているのである。
うちの子が家に帰ってきて
はるちゃん、はるちゃん、と何度か言ったとき
へえと思い、少しほっとし、はるちゃんと仲良く遊んでいるの? と聞くと
ただ うん、としか答えなかった
子供の世界では
はるちゃんは別にさびしそうには、見えないのかもしれない
坂本さんの周りにはあまりひとがおらず、例によってずっと淋しげだったが、
自己紹介する横顔を見つめているうち
わたしは坂本さんを、いつでもこんなふうにぼーっと見ている、それもよく見ている、それはなぜかと自分ながらいぶかしく思った。
気になるのならば言葉をかければいいじゃないの。
そのときわたしはわたし自身が、坂本さんに(あるいは はるちゃんにも)どこかそっくり、というように感じたのだった。坂本さんが淋しげに見えるとき、わたしが淋しいように感じるのだった。
お弁当の時間になって、それぞれがお弁当を広げ始めたとき
あら、四つ葉のクローバーがありますよ、と坂本さんが言い
それはわたしに話しかけるようであった
ほら、ここにも、ここにもある、と半ば興奮ぎみに四つ葉をつまみ始めたので、
わたしもよくよく地面を見たが
三つ葉ばかりで、四つ葉など、見当たらない。
えっ、どこ、どこにあるの、
ほら、ここ、ほら、ここですよ、
彼女がすばやくつまんでしまうのと
一面が緑で、まぶしいような一日だったので
四つ葉のクローバーを、見極められないのだ。
どうしたの?
騒いでいたのでほかのお母さんが寄ってきた。
坂本さんは、
再び興奮して
ここに四つ葉のクローバーがたくさんあるんです、こんなの初めてです、
すごい、すごい、と半ば叫ぶように答えている。
そのときわたしは
わたしと坂本さんが実は
まるで違う人間なのだと悟った
駆けつけたひとは見るなり、
あっほんと。
あっほんと。
わたしは驚いた。
なぜわたしには見えないのか。隠されているのか。
(どこにあるの?)
わたしはその言葉を深く飲み込んで、みんなの姿を輪の外から眺めているしかなかった。
自分が、四つ葉のクローバーをついに探せないというこの事実に
石に突き当たるような思いがあった。その日のことはなかなか忘れられない。
坂本さんが見つけ、ほかの人に見え、わたしには見えなかった
そういうものがある、確かにある。
輪のなかにうまく入れれば、と言ったひとは、
あのときまさに輪の中心で、狂的な輝きすら見せながら、夢中で四つ葉を摘んでいた。

✳︎

「地上を渡る声 30」について 松下育男

この詩でぼくが好きなのは、詩を作るぞ、というような窮屈さから逃れられていることです。詩の始めのところから、すごく自然に言葉が出されています。それは別に詩でなくてもいい、なんでもいいのだけど、伝えたいことがある、そんなふうなのです。

ですからこちらも、詩を読むぞ、と力むことなく、何?と気楽に耳を傾ける感じで、読み進めることができます。

坂本さんの「うまく輪のなかに入れればいいなあと思っています」という言葉は、ぼくには、とてもぐさりときます。ぼくも子どもの頃、人が恐くて仕方がなかった昔は、(今も)、多くの人の中にいることが苦手で、どうしても浮いてしまっていたからなのです。

それを、この詩では「孤独な感じ」と言っていて、坂本さんも、坂本さんの子どもも、そして詩の中の「わたし」もその点では似ていると、あります。「わたし」とはこの詩を書いている人で、つまりは小池さんのことなので、ああそうか、小池さんも、ぼくと似たように感じていたのだなとわかり、少しほっとしたのです。

というか、詩を書くなんてことをしている人の多くは、似たような性格(人の中にうまく混じることができない)の人なのかもしれません。

ただ、この詩はそこにとどまってはいなくて、後半では、自分とおなじように孤独な人種だと思っていた坂本さんが、実はそうではなくて、「孤独ではない」多数の方に属していたのだということがわかります。

それはつまり、孤独の側に、数少ない友人だと見ていた人が、向こうへ連れ去られてしまい、自分だけがとり残された感じがします。

最後の、「輪のなかにうまく入れれば、と言ったひとは、/あのときまさに輪の中心で、狂的な輝きすら見せながら、夢中で四つ葉を摘んでいた。」を読んでぼくは、「ああ」とまさに孤独の奥からのうめき声を、出してしまいました。

夢で見たら苦しくてうなされそうな、強く響いてくる詩です。


小池昌代さんの詩を読む (8) 「針山」

針山  (詩集『ババ、バサラ、サラバ』より)

針山のなかに入っているのは
椿油をしみこませた人毛だよ
長い髪の毛が
ほら
つきさした針を
引き抜くときに
いれかわりに出てきてはっとすることがある
だれの髪の毛か
たずねても
祖母はいいます
わからないね
わたしのもある ほかのおんなのもある
ほかのおんな、というときに
祖母のうなじが光りました
雷のなる夏の夕方
お針箱の蓋をあけて
これが糸きりばさみ
これが目打ち
指貫はこれ
木綿糸と絹糸と
針の穴に
糸を通すのは わたくしの役目です
祖母の目は
見えません
生まれついてからずっと
それはただの へこんだ穴なのでした
つばをつけてよった糸の先を
こころをとがらせ つきとおす
向こう側へ
裁縫はたのしい
つきさしてぬく
貫通のよろこび
針穴に糸が通ったのを知ると
祖母はいつも
一瞬、崩れるように笑います
ありがとよ
わたくしはまだ 十三歳ですけれど
貫通ならもうとっくに知っています
けど それは
わたくしにとって 痛みでしかない
おとこたちがかぶさってきて
とがった針の先で
わたくしをつつく
ひとはり
ひとはり
縫いこめていく
糸を引き抜くとき
布とこすれあう音がするでしょう
しゅっ、しゅっと
火がおこる
摩擦音って官能的だ
物言わぬ祖母も
そのとき目を細め 猫のように笑う
そして おもむろにどなるのです
おまえの身体はおまえのものなんかじゃない
ばかやろう
わたくしは鉄の処女マシーンです
何度、貫かれても
再生する
みずうみのように
元通りになってしまう
わたくしは腐った処女マシーンです
桃色のプラスチック破片が空から降る
やがてあと少しで着物がぬいあがるというときに
祖母は呼ばれてたちあがっていきました
時間がきたよ
途中なのに
未練残さず 抵抗せず
針を針山にぷつっと戻すと
およびがきたよ
平成十七年十月のこと
物凄い目で
わたくしを一瞥して
襖のむこうへ消えていった
針山のなかに残されたのは
椿油のたっぷりしみこんだ
顔のない
女たちの髪

✳︎

「針山」について     松下育男

始めのところを読んでいる時は、お婆さんに縫い物を教えてもらったほのぼのとした思い出を書いている詩なのかなと思います。

糸きりばさみ、目打ち、指貫、など、お針箱の中の物を書いているところなんか、ああそういう日本語の物があったなと、思い出しながら読んでいました。

けれど、この詩はそれだけでは済みません。このあと詩は、思いもしない方向へ進んでいきます。

まず、針山の中に入っている人毛について書いてあるところで、詩はほのぼのとした場所から、大きく外れて行きます。
「わからないね
わたしのもある ほかのおんなのもある
ほかのおんな、というときに
祖母のうなじが光りました」
と書いてあって、針山の中に入っている髪の毛って、ではあと誰の毛なのだろうと思えば、書かれている雰囲気は、どうも男女のややこしい関係が思い浮かべられます。

いったん「ほのぼの」から離れてしまった詩は、さらに外れて、針を通すことを貫通と言い、さらに
「貫通ならもうとっくに知っています
けど それは
わたくしにとって 痛みでしかない
おとこたちがかぶさってきて
とがった針の先で
わたくしをつつく」
と、これはまさに男女の関係そのものを書いています。

詩は「ほのぼの」から男女の「どろどろ」に向かい、揚げ句に
「おまえの身体はおまえのものなんかじゃない
ばかやろう」
のところでは、さすがに読んでいて驚きました。

つまりお婆さんは、自分の身体が自分のものなんかではなかったということを言いたかったのでしょう。女というものはそういうものだ、それをお前は知っておけ、と警告しています。すさまじい迫力です。

そしてこの言葉は、お婆さんが孫娘に真に伝えておきたいことなのだろうなと、いうことが分かるのです。

今は、「ほのぼの」とお針を孫に教えている場合ではないと、お婆さんは思っているのです。なぜなら、すでに「およびがきたよ」ということを知っており、命の残りの時間があまりないので、どうしても教えておきたいことに、それだけに針を正確に通して、孫に思いを伝えたかったのだと思うのです。

「針山」というタイトルの意味が、やっとわかりました。

伝えておきたかったのは、裁縫のことではなく、女の生涯は「針山」の上で生きるようなものなのだ、ということなのです。


小池昌代さんの詩を読む (9) 「最後の詩」

最後の詩 (詩集『コルカタ』より)

自分の生まれた五月に逝きたいと
ある詩人は言って そのとおりになった
わたしは七月生まれ
でも
五月に逝きたいひとの気持ちは すごくよく わかる
いやそれが
いま 正確にわかった気がする
この おおらかな緑に囲まれながら
地球での日々に別れをつげる
嫌なことは 山ほどあった
でもそのときは きっと忘れてるだろう
さようなら
その一瞬が ありありと わかるような気がして
わたしはぎくっとした 自分のことなのに
桜の季節が終わり 花が緑に変わる
風に ざわめく木の音が聞こえる
詩を書くうちに
もともと友達が少なかったわたしは
友をますます失った
いや そのひとを まだ知らないだけで
じつは新しい友達が増えた
のではないか と考えることもできるが
やはりそれは あまりにずぼらな楽観である
わたしは確かに 独りになったのだ
いつも窓際に机を置いて
樹木を見ながら
こうして詩を書いてきた
それが わたしの いつのまにかの 習慣
いい歳をして センチメンタルな女だって鼻で笑ってもいいよ
もう 何を言われても 簡単には傷つかない(ほんとうだろうか?
お酒も呑みにいかず
趣味も持たず
詩を書いたり 歌を歌ったり
結婚したり 別れたり 子供を産んだり
便器を掃除したりして(大事なことだ)
人生を過ごしてきた
そして最後は こうして
木が
目のなかに残るのではないか
そのように
そのように わたしに確信させるほど確かに
木が立っている
いま わたしの目の前に

✳︎

「最後の詩」について   松下育男

この詩を読んでいると、どうしても立ち止まってしまうところがいくつかあります。こんなに大事なことを読んで、そのまま先には進めない、いったん立ち止まって、しばらく考えてみたい。そんなふうに感じられる見事な日本語です。

「地球での日々に別れをつげる
嫌なことは 山ほどあった
でもそのときは きっと忘れてるだろう」

「詩を書くうちに
もともと友達が少なかったわたしは
友をますます失った」

「もう 何を言われても 簡単には傷つかない(ほんとうだろうか?」

どれもホンネのホンネなのだと感じます。詩を書くためにカッコつけていません。本当に感じていることを書こうとしています。そして、本当に感じていることを詩に書く、というのはとても難しいのです。

さほど長くはないこの詩の中には、人の一生で考えたことの中心が収められています。特に、詩人の人生が素直に入っています。

生きるとはなんだったのだろう、若い頃に詩に向き合って、長くたくさんの詩を書いてきて、でもいつも同じ場所に立ち戻るのです。生きるとはなんだったのだろう。

詩作とは、そのようなものなのだと、この詩は教えてくれています。そしてぼくは、とても素直に、ふかくふかく頷いてしまうのです。


小池昌代さんの詩を読む (10) 「出国」

出国 (詩集『野笑 Noemi』より)

遠い国へ行こう と誘う声があった
いつも通る路上では
ビルの解体工事が始まったばかり
ニッカポッカの 年老いた労働者が携帯を手に
昼食の弁当について尋ねている
焼き肉とのり弁でいいのか?
大盛りでなくていいんだな?
そのやさしい響きが 心を揺らす
きみの心臓にこびりついた緑の苔
夏よりも だいぶ 髪が伸びたな
湖と城と森のある国 そこではわずかな光を求め
言葉少なに人が暮らしている
もちろんその国には 特製シラス弁当はない
言葉が通じない
知る顔はひとつもなく
なじみがあるのは スーツケースのなかの古い下着ばかり
現地の服はどれもぶかぶか
だがそこで
きみはきみを脱ぎ 生まれ直す
たったいっぱいの水がほしいときも
きみは額に汗をかき 自分を粉々に砕かなければならない
その細い刃のうえを 歩くんだ
心細い おそろしい 生きることはこわい
不意に殴られ 暗い森の奥へ連れていかれる
裸にされ 一匹の犬となって 地べたをなめ
海へと流される四角い箱の中で思うだろう
わたし 生まれ 二度結婚し 子供を産んだ
詩を少し書いた 人を憎んだ 大嫌いな人々と好きな人々と出会った
いや順番が違う
出会ってから 好きになり憎み好きになった憎んだんだ
たったこれだけの 肉のかたまり
糸杉が
空に穴をあけるほどのさみしさを胸に
行こうと声がする
石を数えよう

✳︎

「出国」について 松下育男

タイトルに「出国」とあるように、日本から外国へ行くところです。

友人に誘われての旅行のようです。仕事とか、観光を目的とするのではなく、自分を見つめ直す旅行のようです。

どこに行くかは書かれていませんが、「湖と城と森のある国」とありますから、北欧のどこかのようです。

空港へ向かう途中での労働者の弁当についての描写は、いかにも日本的な情景です。こんな空気の中で、弁当の選択をせっつかれるようにして毎日を生き、自分を削ってなんとか生きてきたのでしょう。

「言葉が通じない」というのは、この詩ではとても重要な一行であるように思われます。言葉にまみれて生活し、さらに言葉とともに仕事をしてきた人が、心身を休ませるためには、まず何よりも言葉から遠ざかる必要があったのでしょう。言葉を捨ててから、「そこで/きみはきみを脱ぎ 生まれ直す」ことができたのです。

「わたし 生まれ 二度結婚し 子供を産んだ/詩を少し書いた 人を憎んだ」と、人生をこんなに単純にまとめあげているところも面白いと感じました。

けれどもっと面白かったのは、 
「人を憎んだ 大嫌いな人々と好きな人々と出会った
いや順番が違う
出会ってから 好きになり憎み好きになった憎んだんだ」
と、言葉の順番を気にしているところです。

でも、順番が違っていたとしても「人を憎んだ」と、最初に言ってしまった気持ちは、わかるような気がするのです。

確かに、出会って、好きになって、そのあとで何かがあってその人を憎んだのかもしれません。でも、今はなによりも、人を憎むことに気持ちがいってしまうということなのです。

ですから正直さの順番で言えば、決して間違ってはいないし、それだけこの詩は、おそろしいほどに気持ちに従って正直に書かれているのだなと、わかるのです。

自分のことを「たったこれだけの 肉のかたまり」と言い、「空に穴をあけるほどのさみしさ」と言う。

言えば言うほどにさびしくなってゆくから、出国して「さみしさ」という母国語から離れたかったのです。

「言葉」からの出国であり、「出会った人を憎んでしまうわたし」からの出国であり、なによりも、「さみしいわたし」からの、出国なのです。


小池昌代さんの詩を読む (11) 「雨を嗅ぐ」

雨を嗅ぐ (詩集『赤牛と質量』より)

結婚して
タンザニアにいくというかなこさんが
とつぜん言った
ぬーという野生動物をご存知ですか
顔がみにくくて、
真っ黒で、
名前のとおりの、なさけない声で鳴く、
群れをつくり サバンナを移動するんですが、
遠くの雨の匂いを嗅ぎわけるといいます、
ウシだかカモシカだか わからなくて、
山羊のようなひげがあり、
肩のところには らくだみたいなこぶ、
ツマリ、どの動物からも仲間はずれ、
そこまでを一気に言い終えると
……つまり ぬーは神さまから罰を受けたんですよ
相槌もうたずに
みんな黙った
ぬーはどんな罪を犯したというの
なさけない声ってどんな声よ
その声が
自分の泣き声に似ているような気がして
わあっと泣きたい
声をあげたい
そう思うだけの 白い顔で
ぬーの鳴き声を想像する
角をもった黒い毛深いイキモノ
何かをした
何をしたのか
その何かを
かなこさんは一言も口にせず
発ってしまった
タンザニアはアフリカ中央東部にある
ほらここね
地図のうえに
あのとき誰かがワインをこぼし
赤ワインは
世界地図のなかに
もうひとつの
架空の国のしみあとを創った
ひとと別れることは
自分の腕がもがれていくような悲しみ
ない腕を さすりながら
かなこさんは やはり
わたしの右腕だったのだと知る
雨が匂う
からっからに乾いた東京の冬
固まりかけたかさぶたに爪をたて
わたしは
わたしたちは
はるか遠くの地で降り始めたばかりの
雨の匂いを唐突に嗅ぐ

✳︎

「雨を嗅ぐ」について 松下育男

この詩の前半の、ぬーという動物について語っている箇所で、人によっては、この「ぬー」のなさけなさに自分を重ねて読んでしまうのではないかと思います。

ぼくはそうでした。

「顔がみにくくて、/真っ黒で、/名前のとおりの、なさけない声で鳴く、」と、残酷なほどの言われようです。

「何かをした/何をしたのか」と我が身を振り返ってしまう。

さらに「神さまから罰を受けたんです」とまで言われています。

具体的にぬーと何が似ている、というよりも、なんだか漠然と、このなさけなさは自分に似ていると感じてしまう。そういう人がこのような詩に感じ入って読んでしまうのです。

確かにさんざんな言われ方であるのですが、たった一点、「遠くの雨の匂いを嗅ぎわけるといいます、」と、ぬーがきれいに説明されているところがあります。

そしてこの「遠くの雨の匂いを嗅ぎわける」能力こそが、この詩の中心になっています。

取り柄はなくとも、生き続けなければならない。そのためには、遠くを見つめ、感じ取り、生きる道を探れる能力が必要なのだと言っています。

とうぜん、自分をぬーのようだと感じている人は、「はるか遠くの地で降り始めたばかりの/雨の匂いを唐突に嗅ぐ」ことができるのです。

雨は生きる糧であり、それとともに、生きる危険でもあるのかと思います。

そのような生きるための術を持っているのは「わたし」であり、「わたしたち」でもあるようです。

この詩は、作者の個人的な感じ方だけでは書かれていません。ぬーのような人すべてと繋がっていようとしてもいます。

それにしても、「ぬー」とはなんと珍妙な名前かと、つくづく思います。「ぬ」はたぶん一番めだたないひらがな。おとなしいひらがな。それを伸ばしている音は、名前というよりも、うめきのようです。

でも、珍妙な名であろうとも、うめきのような人生であろうとも、まわりのことに動ぜずに、目を閉じて、わたしはわたしの遠い雨を聴きながら、生涯を全うしようと、この詩を読めば思うのです。

✳︎

ということで、「小池昌代さんの詩を読む」は、今回でいったん終わりです。

11冊の詩集(『現代詩文庫』を除く)から、詩を一つずつ拾ってみました。もちろんまだまだたくさんの、拾いたい詩はあります。それはまた、いつかの楽しみのためにとっておこうと思います。

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