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編集と犬の遠吠えと

インパクトのある言葉をつい使いたくなる。

新聞の整理記者時代に面担でなく何でも屋のフリーで、ある地方版に入ったときのことだ。ワイドショーでも取り上げられたようなある行方不明事件に大きな動きがあった。忽然と姿を消して1年余り。乗っていたとされる車が見つかったと出稿部のデスクから一報が入った。

地方版だけでなく全国版の一面、社会面、そして私の地方版にそれぞれ記事がくるという。一面は本記といって「○○で車が見つかった」という事実関係を伝える記事、社会面にはその背景や現場の表情を書き込み雑感記事、地方版には、地域住民や関係者の声が載る雑感記事が来る。

こんなときは各面で見出しを調整する必要が出てくる。全国版に比べ地方版は降版(編集の締め切り)時間が早く設定されている。締め切りだけでない、社会面と地方版の記事にあまり違いはないから見出しもかぶり気味になる。持ち時間の一番少ない地方版編集は難儀なのである。

談話からカギカッコで見出しを取りたいが、「地元に衝撃」という要素はすでに社会面に取られている。原稿用紙の裏面に見出しを殴り書きした紙クズが机の上に積もっていく。整理デスクも同様だ。手を動かし頭を振りながら言葉をひねりだそうとする。デスクは犬の遠吠えのような奇声を発する。

「ウォーン、ワォーン」
その声に引き寄せらせ、心配そうにその日の編集責任者である編集局次長が様子を伺いに来る。

結局、二人の見出しを合わせたような形に落ち着いた。
「こんなに近くにいたなんて」
まったく原稿にはない要素だった。自分が住民になった気持ちで付けた。
実はこの見出しがよかったのか、20年後の今も判断がつかないでいる。むしろ悪手だったとも思うときすらある。

僕は、編集者は「問い」を立てるのが仕事なのだと思っている。記者は「伝える」ことが使命だ。

つまりこの見出し「こんなに近くにいたなんて、どうですか地域の皆さん」と地方版の読者に問い掛けたのだ。

編集者も現場を見てきた記者と一緒になって「伝えたい」と思う。でも一歩引いて記者とは異なる目で「問う」。「正しい答え」などない。編集という仕事は、社会に向けた「問い」を発信していたのだと、雑誌づくりをする今、つくづく感じていることだ。

社会に対する「問い」を立てるのが仕事である編集者の役割は、ますます大きくなっているはずだ。ただ厄介なことに、記事の書き手も兼務する、ひとり編集部だから「伝える」ことを手放すわけにはいかない。

でも、きっと雑誌の誌面をつくるときは、「伝えること」を一度忘れて、編集というプロセスをくぐって、社会に問いを立てているだと思う。

SDGs+第5号では「都会か」「地方か」をどう乗り越えていくのか?と処方箋を示したいというよりも、問いかけたつもりである。

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