18番(花山版) 住の江の岸による波 藤原敏行朝臣
2019年1月19日/花山周子記
住の江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人めよくらむ 藤原敏行朝臣 〔所載歌集『古今集』恋二(559)〕
「住の江の岸による波」は「よるさへや」を導き出す序詞となっているが、初句に置かれたこの「住の江」という固有名詞は、私にはなんだか地味でシケた感じがする。「住の江」は当時は景色のよい場所として知られていたようだから、今でもゆかしい地名としての印象が強いのかもしれないので、この印象はあくまで私の語感からくるものなのだけど、人気のない海岸の荒涼としたさびしさを思うのは、この歌に人気がないからでもあるだろう。まあ、和歌はだいたい人気がないといえばないのだけれど。
そのような印象が、そこによる波、を叙景としても立たせていて、この一首の基調を成しているとも思うのだ。
改めてこの「住の江の岸による波」の序詞としての働きを説明すれば、これは、「よる波」から導き出される「夜さへや」、つまり、「よる」が掛詞となっていて、「夜の夢でさえ、人目を避けて会いには来てくれない」、という恋心を詠う。
夜の波の岸を洗っては引いてゆく寂しさと、恋人に会えない寂しさとは、序詞や掛詞といったテクニックをかき消すほど、ひとつの心の在り様として静かに繋がっている。「寄る波」、「寄る」「さえや」という言葉の働き、静かな振幅には、往ったり来たりする心の逡巡さえ思わせ、音のリフレインとしても「よくらむ」にまで見事に統一されている。
「よくらむ」の推測、「夢にさへ会えないのは、夢でさえ人目を避けているのだろう」という、ここにはうちに籠る寂しい推測が心の振幅を通して諦念のもとに断定されていくのである。そして、残るのは、荒涼とした波の満ち引きであり、人気のない叙景歌としての佇まいなのである。
翻案は昨年末(2022年)に江ノ島に行ったときの歌を。
海岸線の先端は雨の日も風の日も山羊のからだのように光って 花山周子
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