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【誰得】つばとよだれの違いって?🤤

こんにちは!
今日も元気に頑張っていきましょう!!💐

さて、本当は今回は、不登校について取り上げるつもりでした。
しかし、どうしても書きたすぎたので、今回はつばとよだれの違いについて考えてみることにしました。(そんなことある?)
(不登校は次回書きます)
普段書いていることも相当ですが、今回は特に誰得な内容になっています笑


きっかけは私の友達との会話です。
アトピーを持っている友達で、背中が痒くてたまらないらしいです。
もちろん掻いてはいけません。
けれどどうしようもなくなって掻いてしまうと、それはもうよだれが垂れるほど気持ちがいいらしいです笑
アトピーを持っていなくても分かる気がしますよね。

後日また同じ話をしたときに、今度はつばが出るって言ったんです。
それを聞いて違和感を覚えました。
よだれの方が良くないか?って。
その時はうまく言語化できませんでしたが、つばとよだれの違いについて考えたくなりました。😳

みなさんはどんな違いがあると思いますか?
そもそもどうして同じ唾液を表す言葉が2つもあるんでしょう?
唾液だけでも良かったはずでは??

こうした言葉の違いについて考えるときに、私がいつも頼りにしているのはソシュールさんです。

スイスの言語学者であるフェルディナン・ド・ソシュールは、言語を「差異のシステム」と見なしました。
これは、言語内の各要素(例えば単語や音声)が、他の要素との差異によってのみ意味を持つという考え方です。
つまり、言語の各要素は、それ自体に固有の意味を持つのではなく、他の要素との関係性によって意味を獲得するということです。

ソシュール以前、言語とは「モノに貼り付けられたラベルのようなもの」として理解されてきました。
それは、たとえば、現実に存在する「赤くて丸い果物」というモノに対して、「リ・ン・ゴ」と、それに対応する言葉がラベルのようにペタリと貼り付けられている、という考え方です。
それぞれのものに対して、ラベルを貼って名前をつけているという考え方はとても妥当に思えます。

しかしソシュールは、「言語とは、何かを何かと、区別するためにある」という新しい言語観を示しました。
つまり、単純に「赤い何か」をリンゴとして認識したいから、「リンゴという名前」をつけたのではなく、「赤い何か」を「他の存在と区別」したいから「リンゴという名前」をつけた、という捉え方をしたのです。
他のものと区別するだけの価値がある場合に、差異のシステムとして名前がつけられる、という考え方です。

例えば、私たちは道端にある石の一つ一つを区別して名前をつけてはいません。
どれもただの石です。ちょっと変な形のやつも、名前は石です。


ところが野菜や果物は形が似ていても別々の名前がついています。


みかんと柿、スイカとメロンなど、大きさや形は似ているのにしっかり名付けられています。
どれもすぐに名前が出てきますよね。
これは、私たちにとって区別するだけの価値があるからです。
味が全然違うし、好みもあります。ちゃんと区別しておかないと不利益を被るかもしれません。
このように、他のものと区別するために言語は存在するという考え方をしました。
区別する価値があるからその区別に対応する言葉が生まれたのです


私は道を覚えるのが苦手です。
家の半径3キロ以上は道を覚えていません。
国道何号線や、何とかICみたいに皆さん覚えてますけど、私にとっては道でしかないんです。
石ころと同じように、他の道と区別する価値を感じられないので、一生道の名前が覚えられません(言い訳)
グーグルマップがあるので、ほんとに助かっています。

アイドルの顔が全部同じに見えるって言う人もいますよね。
あれも、その人の中では区別することに価値を感じられないから(メリットがないから)見分けるための言葉(名前や役割など)を覚えられないのかもしれません。


話は戻って、つばとよだれについても同じことが言えるのではないかと考えました。
わざわざ言葉があると言うことは、区別する価値があるということ

どんな価値があるの?
区別することでどんなメリットがあるんだろう?


まず区別の仕方ですが、口の中にあるとつばです。
つばが、意識的に外に出ればつばで、無意識的に外に出るとよだれになるのではないかと考えました。

梅干しを想像してつばが出る、これはまだ口の中にありますよね。
道端につばを吐く、これは意識的ですよね。
寝ててよだれが出る、これは無意識です。寝てる間にべちょべちょにしてやろうなんて考えていません。
お昼ごはんを想像してよだれがでる、これは無意識に外側に出てきてしまっているイメージをしますよね。

では、外に出た唾液が意識的か無意識的かを区別することでどんなメリットがあるのでしょう?

意識的であるか無意識的であるかを区別する必要性は、コミュニケーションの文脈で特に重要になります。
人間は社会的な生き物であり、他者との関わりの中で意図を明確に伝達することが必要とされるからです。
例えば、つばを意識的に出す行為は、特定の文化や状況では侮辱と見なされることがあります。
これは相手に対する敵意や軽蔑を示すジェスチャーとして意図されることが多いためです。
一方、「よだれ」は多くの場合、無意識的な身体反応であり、赤ちゃんがすることが多い自然な現象であったり、大人であれば睡眠中や病気、あるいは食べ物を見て食欲を感じるときなどに見られます。

このように、意識的または無意識的な行為としての「つば」と「よだれ」を区別することで、私たちはその人の意図、感情、健康状態などを推測する手がかりを得ることができます。
これらは社会的相互作用の中で、誤解を避け、適切に反応するために非常に役立つ情報です。

私たちは意識的にした行動であるかどうかから、ここまでたくさんの情報を得ることができます。
ならば、その区別に価値が生まれ、言葉が生まれたのだと考えられます。

調べてみると、他の言語でもつばとよだれを区別していることが多そうです。
英語では、つば」は通常 "saliva" または "spit" と表現され、「よだれ」は "drool" や "slobber" と表されることが多いです。
"Saliva" は口内で分泌される液体そのものを指し、"spit" はその液体を吐き出す行為やその吐き出された液体を指します。
一方で "drool" や "slobber" は、液体が口から垂れる状態やその行為を指し、より「よだれ」に近いニュアンスです。

英語圏でも分けて考える価値があると判断したのでしょうね。
何なら日本語よりも種類が多いので、より細かいニュアンスまで区別しようとしたのでしょう。
言語によってはつばとよだれの区別がないものもあるでしょう。

例えば蝶と蛾は似ていますが日本語では違う名前がついています。
しかしフランス語ではどちらもpapillonで、区別されていません。
他の言語も探ってみると、その国の民族性や感性といったものまで見えてくるかもしれませんね。

我ながら、つばとよだれでこんなことを考えるのは気持ち悪いですね😂

ところでキスは唾液交換と言うことがありますが、つばの交換なのかよだれの交換なのかどちらなんでしょう?
意識的に交換しようと外に出しているのならつばですが、愛情表現が目的にあってその手段として無意識に交換しているのならよだれになるのでしょうか?
あまりにもキモすぎるのでこの辺でやめます(手遅れ)

いやー、noteってこんなことまで書けるので素敵ですね。
たまに誰得なことをまた書いてみようかなー。

ここまで読んでくれてありがとうございました!!

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