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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(19)

 駒蔵の性格上、一から事業を立ち上げること、経営の新しい仕組みを作ること、人材を大胆に配置すること、といった物事の始まりには、体がうずうずするほど興奮し集中力を発揮するのに、いったんそれが軌道に乗ってくると、途端に放り出したくなる。そんな駒蔵には格好の相棒、岡坂愛之助がいた。彼はむしろ駒蔵が描き上げた設計図を実現させていくことに長けていた。いつ投げ出しても拾ってくれる相棒のいる安心感は、駒蔵にとっては絶大なものだった。
 投げ出した後のちょっとした間隙に、今度は遊びの虫が這い出してくるのも、駒蔵の性格の一部である。毎年のように子供が生まれていたころはおさまっていたお茶屋通いが、じわじわと復活する。
 
 美津は良い女房だし、きっちり家庭は守ってくれる。トウが立ってはきたがいまでも美人で、まったく不満はないが、これと言って面白味のない女であるのは間違いない。となると、そこにいるだけで周囲をぱっと明るくし、気の効いたことを言って笑いで包んでくれる千鶴のような女が恋しくなってくる。かつて入れあげて「京縫」に通っていたころの客と女将としての楽しい思い出が蘇ると、五十路も超えたというのにその時代に戻りたくてたまらない。といってわざわざ千鶴に会いに行く駒蔵ではない。絶えず新陳代謝を続ける勢いのあるお茶屋を求めて、夜の新地へと足を運ぶのだ。
 ただ、理由もなく出て行くのも決まりが悪いので、美津の用意した夕飯のひと皿に、ちょっとだけ口をつけ、
「何やねんこれは? こんなもん食えるかい!」
 と言ってお膳ごとひっくり返し、美津と子供たちをびっくりさせてからぷいと出かけていく、ということをする。初めは驚き、何がいけなかったのかと悩み、それを駒蔵にも言い出せないでいた美津だったが、そんなことが何度か続くうちに、駒蔵が手加減しているのに気づく。こんなもん食えるかと投げつけたおかずが「お父ちゃんの大好物やで」と、子供にしてはいたって冷静な五男坊の武に教えられたこともある。
 ところで、そうやって出かけて行くお茶屋には、たまに「京縫」も入っている。 
 十町ほどしか離れていない「京縫」=「笹部のお母さんとこ」を、双方の子供たちはしょっちゅう行き来していて、御飯を食べて帰ってくることもあった。たとえば千鶴のところで食べさせてもらった美津の末っ子の勇が、家に戻って来てこう報告する。
「お父ちゃん、居てはったで。笹部のお母さんが、おみつさん、心配しぃな、ゆうてはった」
 こうやって「お膳ひっくり返し」はひとつの「儀式」のようなもの、ということを美津も子供たちも学び、驚かなくなった。駒蔵の前ではとりあえず驚いてはみせる技も習得した。儀式を儀式として演ずることで、夫もバツの悪さをごまかしているのだろうから、乗ってあげればいいだけだ。駒蔵は、二人の女の間を行き交い、たまにはあらぬ方向にも飛んで行くお手玉みたいなものだった。

 罪滅ぼしのつもりなのか、駒蔵は二人を一泊旅行にちょいちょい連れ出した。千鶴は長くは家を空けられないので、行くのはたいてい近場の有馬温泉である。子供たちが小さいうちは、雇っているばあやに預け、荷物運びに男衆を一人連れて行く。
 有馬温泉へは鉄道で、明治三十一(1898)年に開業した有馬口(現在の生瀬)駅まで行き、そこから十キロほどの道のりは人力車を使った(大正四年に有馬温泉と三田さんだ駅を結ぶバスができてからはさらに便利になり、子供も引き連れてたびたび訪れるようになる)。ゆっくりと湯に浸かり、ご馳走に舌鼓を打ったあと、部屋で花札や麻雀に興じるのが常だった。そのときのために男衆を連れてきているのだ。
 千鶴は商売柄、花札も麻雀もめっぽう強かった。札や牌を手にした途端、目がきらきら輝いて、ちょっと人が変わったようになる。遊び慣れた駒蔵と千鶴にかかれば、子供の頃に遊んだ経験しかない美津は「ああ、鴨がネギ背負ってきた」とからかわれ、大概むしられる。そのうちベッタクソ(下手)の美津とやるのはおもろない、と相手にしてくれなくなり、駒蔵は有馬に別荘を持つお茶屋仲間を呼びつけたりした。子供を連れて行き始めると、美津はお守りばかりする羽目になった。子供たちは次から次へと順番に悪さをするので、部屋の窓から有馬の山並みをゆっくり眺める暇もない。ひとつ世話が終わると美津は、「あーしんど」と溜息をつく。
 
 それでも翌朝、目覚めると一人で湯殿に向かい、誰も居ない湯に浸かって初めて、来た甲斐があると感じるのだ。やがてその隣に「お美津さん、堪忍な」と、ついさっきまで飲んだり遊んだりしていたはずの千鶴が入ってくる。そして水蜜桃みたいに滑らかな肌を、有馬名物・赤湯の中でたゆたうままにさせて、
「こんときしかあらしまへんねん。浮き世を忘れられる唯一の幸せな時間やねんわ。うちの子まで面倒見てもろて、ほんま堪忍だす」
 と、美津に両手を合わせるのだった。
「何ゆうてますねん。みんなうちら・・・の子やないの。お千鶴さんが楽しんではるなら、それでええんよ」

 二人の女の間には、駒蔵も入り込めない温かくて、優しい気持ちの交流があった。お湯の中で身体も気持ちも緩んだ美津がぽろっと、お茶屋に出かける前には必ずお膳をひっくり返す駒蔵の話をすると、千鶴はけたけた笑って言う。
「それ、うちでもしまっせ。七郎が真似して困んねん」
 それを機に湯の中でひとしきり、駒蔵のこき下ろし合戦が繰り広げられた。そして最後は必ず大笑いになる。二人にとってかけがえのないひとときだった。

 千鶴は三十代も後半になって、二年続けて子どもを産んだ。明治が終わる前年、明治四十四(1911)年の春に生まれたのが、一枝に続く女の子で、「春枝」と名付けられた。翌年明治天皇が崩御、明治は七月二十九日までで、三十日から元号は「大正」となった。新元号になって生まれた男の子は、美津の子も合わせて十一番目の男児だったことから、駒蔵はあろうことか「十一郎」と名付けた。
(つづく・次回の掲載は8月1日の予定です)  

* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。





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