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結婚未遂後、結局医者狙い?

大きな病院で働いていると、常勤の先生以外は、他の大学病院の医局から研修医や、専門医が数ヶ月から年単位で交代していく。
今まで、何百人の医者と関わっただろうか。

新人の頃は、仕事を覚えるのが必死だったけれど、持ち前の要領の良さで、覚えは早かった。
3年目には、一通り一人前に仕事が出来た。
結婚未遂事件後、引っ越した場所は、若者が遊ぶ夜の街から徒歩数分の所だった。
わざとそこを選んだわけではなく、不動産屋さんからのお薦めで、職場に自転車で行けて、セキュリティー面で大丈夫な所を選んだだけだったけど、夜の治安は正直悪かった。部屋を選ぶ時は夜もちゃんと見なきゃとその時気付いた。

仕事を覚えこなすことが出来たら、当然定時に帰れる。それから仮眠をして夜の街に繰り出すって言うことを繰り返していた。でも、全然恋愛に結びつくような出会いはなかった。

私は、手術室にその時勤務していた。手術室だと、病院中の外科系医師とは、ほぼ全員かかわる事になる。
毎年ローテーションで色んな新しい医師が来ていたが、その年の若い医師は、ノリのいい人ばかりだった。私が、その繁華街近くに住んでいると言うと、よく飲みに誘われるようになった。

当時のクラブは、女の子はタダで女の子を連れて行かないと入らないクラブもあった。そう言うクラブの方が、可愛い子が多かったから、そのクラブに行く時は必ず誘われた。そして、中で自由にすごって言う形だった。そこで、私は、私大病院の医学生グループと仲良くなった。そこで、国公立病院の医師と、私大病院の医師の違いを目の当たりにした。
まず、お金の使い方が派手で、学生なのに高級車を乗り回していた。クラブ以外でも、テニスサークルや、マリンスポーツだったりはじめて経験する事を当たり前の様にしていた。
ほとんどが、地方の大病院の息子って感じで、何不自由なく暮らしてるなと感じた。いい感じになりそうになったりもしたけれど、国公立病院の医師の真面目さの方が魅力的に感じて、次第に遊ばなくなった

手術室の中で、1番大変な手術が心臓の手術だった。
私は、心臓の手術が大好きだった。
心臓外科には研修医がいて当時は、心臓外科の研修医は最も過酷で一週間家に帰らない事は、ザラだった。1年間で大体他の病院に異動になるので、1年の辛抱と思って耐えてる感じがあったけれど、他の診療科の先生とは違い、飲みに行く約束をしても、ドタキャン必須位な位過酷な勤務をしていた。
その研修医の1人に私は恋をした。

当時は、携帯もなく、自宅の電話番号しか連絡手段がない。しかも、接するのは手術中のみ。
どうやって、お近づきになろうかと、心臓外科の手術のたびに思っていた。
手術の介助には、直接介助といって、術者と一緒に手術台に立ち手術介助する仕事と、外回りといって、麻酔科の先生の指示の薬を作ったり、術野からの必要補な物品を補充する仕事がある。この外回りの時が唯一お近づきになれるチャンスだった。しかも、その先生が外回りとも限らないので、月に2回ほどしかチャンスはなかった。

少しの空き時間に、少しずつ、趣味の話をしたり、出身地の話をしたり距離を縮めて3.4ヶ月後に、やっと電話番号を手に入れた。電話番号を手に入れてたものの、ほぼほぼ、病院にいるから、電話をしても繋がらない。それから2ヶ月位かかって、やっと食事まで漕ぎ着けた。2人きりになって、話しみると面白くてますます好きになった。その後も、約束してはドタキャンになったり、急に会えたりを繰り返し、私の事どう思ってるのと思いつつも日々が過ぎた。

もういいやと思った頃に、やっと家に誘われて、部屋で一緒に過ごすことが出来た。少しだけ距離は縮まったけれど、携帯がない時代に、仕事と信じたいけれどなかなか連絡が取れないことは、修行僧の様に辛かった。仲が深まるほどに辛くなり自分から別れを告げた。

結婚未遂するほど長く同棲生活を続けたことがある私にとって、チャラすぎる医者や、忙しすぎる医者は、無理なんだと実感した。

因みに、最近ある医学誌に、その先生が載っていた。
笑顔はそのままだったけれど、禿げていた。

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