詩『いつから人は夢を見るのか』
では、いつから人は現実ではなく夢を見るのようになったのか?
夢には安らぎがある。夢には不可思議さがある。夢は眠りの最中にある。夢には夢がある。
それらは不可侵でありほとんどは起きたら忘れてもしまう。
忘れる機能。
それはきっとニアリーイコール。忘れ去る、でなく墨を水に流すような。
だから神さま仏様。
私たちは過去を赦すのです。償えない業に縛られても、過去の業火に焼かれるだけ。
悪戯に人の領分を侵すことがどれほどの不条理なのか。この詩の犯人が私なら、一連の真犯人は誰でしょう。
きっと最後まで出ては来なかったでしょう。
そういう人は立場を重視もします。
勇気を以って行動することに、どれほどの意味が詰まっているのか。
声を上げられず、ただ悔しさに泣き寝入りするしかなかった人は、果たしてそんなに悪いでしょうか?
安らぎを求めて眠ることは。死の練習ではありません。明日を生きる日々の糧です。
意訳の揚げ足取りをするものは、正しい答えを出せば良いだけ。言い訳をするのは、責を降りたいだけ。
仲間はずれにする人はただ自分の世界を独り占めしたいだけ。ひとりを認識する何かがあれば落ち着くという優越感は、一時のもの。
変わらぬ永遠は、ないのです。変わりゆくから、永遠があるのです。だからわたしが使うのは、いつだってニアリーイコールに寄る。
揚げ足取りはただのスキンシップと割り切りましょう。真実とは夜明けとともにやってくると、信じた人が居たのです。
良い業(カルマ)は福徳を連れて来もします。悪い業(カルマ)を押し付ける人は現実の責任に苛む、逃げたい守りたい人たちです。
追い立てるのは、許さぬ人です。彼らは怨恨に苛むのです。だから私たちは過去を許し、未来を紡ぐのです。
未来を刈り取るのは死神です。嘯(うそぶ)く彼らは、迷い惑うカルマの澱に潜んだ、暗い、人のカルマです。弱者の鎌は、農耕の神から与えられた分け御魂、その形。
芸術による風刺の芯は確かなことでしょう。
私たちは、建設的な明日を語るべきなのです。
そして夜には暖かな夢を見たことを起き抜けにだんだんと忘れていくのが、丁度良いのです。
私は今日も耳鳴りに苛まれる。薬を飲んでも電磁波ならば意味はありません。
抱えるべきはなんなのか。きっと希望を抱くのです。
ほづみわたる
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