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 霧の宴  ミラノ  Ⅰ

 数週間後、作曲家の友人とマリアムは、アンドレアの作品の中から彼女のコントラルトの声域と声質を考慮して曲を選び出し、コンサートの準備にかかった。
 その年のシーズンのオープニングに設定されていることをマリアムは恐れたが、アンドレアがそう望んだ ということで、責任の重大さに押し潰されそうになっていた。専門家ではない、ということに甘えてはならない。演技者として、出来得る限り最高の演奏をすべく、作曲者の意図を自分の血の中に流し込む必要がある。
 選ばれた作品は、声楽上の専門的な高度なテクニックをそれ程必要としないが、深くエスプリ―メレしなければならない力量を要求されている。
或る角度から見れば、役者の役作りと同じで、マリアムはそれほど違和感を感じなくて済むジャンルである。幸いなことに、アンドレアの作品にはその種の曲が多かった。
 だが、いざ打合せに入ると、作曲家とマリアムの間には感覚の微妙な食い違いが生じて、屡々言い争いになるのであった。
 音楽、という点において、マリアムはあくまで素人であり、文学的表現に関して言えば、作曲家の解釈はマリアムの意表を突くほど表面的であった。
 アンドレア、作曲家、マリアムは、それぞれの分野で多忙であり、揃って顔を合わせることはなかったが、それはかえって他者の固定観念に束縛されることなく自由な発想を試みることができるという点で、マリアムにとっては好都合であった。肉付けし、そぎ落し、試行錯誤しながら熟考し完成させてゆく、それがマリアムのやり方なのである。
 友人の作曲家は、解釈と表現を決して譲らないマリアムに
「君という人は、恐ろしく頑固で傲慢な人だ」と嘆いた。
 ある朝、二人はめずらしく上機嫌で和やかにレッスンに入った。おそらく二人の頭の中に、その朝、アンドレアが初めて合流するするかも知れない、という期待があったからであろう。演奏される作品は、ほぼ仕上げの域に達していた。
 十一時になって、アンドレアが五線紙を筒状にしたのを手に現れた。
その頃には例によって、作曲者とマリアムの間に演奏するタゴールの詩のある部分の解釈の相違から、少々気まずい空気が漂い始めていた。
それで、お互いの頭を冷やすために、コーヒータイムを取ろうとしていたところである。
「この畑の人種には、よく言えば個性的、悪く言えば頑固な変人が多いのは知っているつもりだったが、こんなに強引な人に遇うとは、、、驚いたね」
作曲家は皮肉たっぷりに笑った。
 アンドレアは少しはにかんだような曖昧な薄笑いを浮かべて黙って立っていたが、ふと我に返り、手にしている筒状の五線紙をマリアムに差し出し
「気に入ってくださるかどうか、、、、ちょっといたずらをして、貴女のために作ってみました」
 何と云ってら良いか戸惑っているマリアムを後目に、好奇心旺盛な作曲家はアンドレアの手から素早く手書きの楽譜を奪い取り、ピアノに向かった。
 フムフムと頷きながら楽譜を読んでいたが、やがて低いしわがれ声でハミングを交えて旋律を辿り、時折中断して伴奏のパートに鉛筆で音符を書き足したり削ったりして最後のフラーゼを弾き終わり、一息ついてから言った。
「ウーム、君らしい曲に仕上がっているねえ。なかなかの出来栄えじゃないか。君の作品の中でも傑作の一つに入るかな!」と言いながら、傍らに立っているアンドレアを見上げた。
 それは、盛唐期の詩人李白の<望郷>というポエムのイタリア語訳で、
<バラード>と<遥かなる歌>の二部からなる、かなり長い曲であった。
「マリアムの長所をかなり捉えていると思うよ」と作曲家は言ったが、
当のマリアムには、この作品に込められたアンドレアの意図がすぐに掴めなかった。が、心を落ち着かせて何度も楽譜を読み返してゆくうちに、おぼろげながらその輪郭が浮かび上がってきた。
少し虚無的ではあるが、一年ほど前に勉強したクラウディオ モンテヴェルディの <アリアンナの嘆き>のレチタティーヴォの部分に共通しているところがある様に思えた。
 クレモナ生まれの十六世紀~十七世紀の巨匠のレチタティーヴォは、マリアムがこよなく愛する作品である。古代ギリシャ劇に心酔する彼女にとって、ギリシャ神話を踏まえたそのドラマティックな描写は、彼女の最も得意とするところであり、バッソコンテイヌオを土台に語り謡われる、自在変化で優美な古語の豊かな文節は、古典戯曲を愛する彼女を恍惚とさせるのであった。
 あの優雅な広間で、リゥートを奏でながら宮廷歌手によって演奏されたであろう十七世紀初頭のゴンザーガ宮廷を想像すると、ドラマテイックに謡われるアリアンナの心情が、微かに聞こえてくるようである。
 <望郷>をプログラムの最後に置くことで、三人の意見は一致した。
「君たちはどうしてTu (親しい間柄で使われる2人称、単数形、 君、お前など)で話さないの?」
作曲家は、アンドレアとマリアムが距離を置いてLei (2人称として使われる場合はそれ程親しくない間柄の人に対してか目上の人、敬意を持っている人に使われる、貴方、貴女など)で話し合うのを気に留めて云った。
 マリアムにとってはしかし、年長者であるアンドレアに対して、親しすぎるTuは、敬意を欠くようで口にすることができない。
「二人とも、もう親しい友だちではないのかね、、あゝ、そういえばアンドレア、マリアムは君の健康回復のために願をかけて、半年も前から毎朝特別なお祈りをしているらしいよ」
ーオシャベリメが、、、ーと、マリアムは作曲家を睨んだが、遅かった。
慌てて子供じみたたわいもないマジナイを恥じ、何か良い言い訳はないかとどぎまぎしながらアンドレアを見上げた。
アンドレアは一瞬驚いたように目を瞠ったが、やがてその目は優しい感動で涙ぐみ、無言でマリアムに近づき、感動を押し隠すかのように親愛を込めて彼女を抱きしめた。
「さあさあ、アンドレア、マリアムは君の恋人じゃないのだから離れて、離れて! 君には診てやらなければならない患者がたくさん待っているのだし、僕たちは未だまだ勉強をしなければならないのだよ」
 マントルピースの上の古びた置時計に目をやりながら、作曲家は少し苛立って云った。
         つづく




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