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霧の宴  ミラノ Ⅴー3           Al di Là (アル ディ ラ)         彼方に

*ジョルジョとの対話。パトスとロゴス。<美>の考察。
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  暫く二人の間に時間が澱んでいた。頭の中に遠のいたり近づいたりする未解決なある考えを、マリアムは自らにも理解させようと試みる。
「ルキーノ ヴィスコンティが映画化した、トマス マンの<ヴェニスに死す>を観たでしょ?
貴方がどのように受け止めたか知らないけれど、あの耽美の世界には恐ろしいほど研ぎ澄まされた孤独な<美>の幻が根底に潜んでいて、異様な煌めきを放っていると、わたしには思える。
残念ながら殆どの人が、かなりの教養人でさえ、あの作品のテーマをごく表面的に<少年愛>という固定観念で片付けてしまうけれど、わたしは納得できない。ヴィスコンティがあの作品を媒体として見据えていたのは、もっと深遠な不可解な次元ではなかったかと、わたしは考える。
 ロゴス的美に囚われているアシェンバッハの前に、忽然と現れたG.モローの<ラ フェ オ グリフォン>さながらの少年に象徴される<美>が、それまでの彼のロゴス的美の概念を跡形もなく打ち砕いてしまう。その<美>はパトスの領域に属していて、人間の愚かな叡智では到達できない次元に生息している。好むと好まざるとにかかわらず、太古から人間の肌に刷り込まれている深層意識以前の感性、感覚ではないかしら?
パトスのシムボルに、アシェンバッハは度を失い恐れながら、その妖しげな<美>の神秘性に抗う力を失い無抵抗に引きずり込まれてゆく。少年が投げかける(と思われる)微かな笑みに彼は呟く(そのような微笑みを他者にしないでくれ<Ich hab' dich  lieb>私が君を愛しているのだから、、、)少年が彼に投げかけた微笑みとは、<パトスの美>の微笑みに他ならない。
だから、この<Ich hab' dich lieb>は、現実の美少年タジィオに向けられたのではなく、瞬時に移りゆく少年の美に象徴されている<パトス的美>の神秘性への告白であろうと、わたしは考える。
アシェンバッハの深層意識のカオスの闇の中に、突然燈された<美>の炎、それを彼は失いたくない、独占したいという欲望に駆られる。何故ならそれは、過去において彼が想像し得なかった未知の崇高さゆえ、地上の人間の現実で破壊されたくなかった。そして更に、彼自身の孤独な現実からも美しい少年を遠ざけることを選ぶ。そうすることによってのみ、彼の魂に燈された<美>を侵す危険性を回避することが出来るから。<Je  t'adore!>(汝=美を愛し崇める)と、永遠に彼は呟きつづけるでしょう、彼の手は既に空っぽになってしまっているけれど。勿論アシェンバッハはそれを熟知しているはず、熟知しているからこそ狂おしいほど憧れるのでしょうねえ。
全ては無限大の<美>の渦に吸い込まれ、己の存在を失うことさえも躊躇しない、むしろそれを渇望すると、わたしは思う。<パトスの美>に恐れおののく程の感動は、時空を超えて変化自在の無限に広がってゆき、個々の魂に波動となって伝わり響きあう驚きとなる、でも次の瞬間には跡形もなく消え失せてしまう。その<美>の感動を甦らせることはできない。何故なら、全ては留まることなく常に流動し続けているのだから。人はただ記憶の中に、そのおぼろげな形骸を虚しく愛おしみ続ける事しかできないでしょう?
 人間の出会いも、その瞬間から弧として離反してゆく、それ程すべての存在は孤独なのではないかしら? 常日頃私たちが口にする、愛するということさえ、自分にそう思い込ませる幻想なのでは、、、、。時間は一瞬たりとも止まることはないし、シェーンハイマーの<生命は流れである>やヘラクレイトスの<万物は流動する>という真理を考えれば、わたし達が愛すると思う人を静かに見守りながら、歩調を合わせて彼の時間を共に歩く事しかできないと思う」
「僕たちは、彼にもはや何もしてやれないのか、、、、」
「貴方は充分にしてあげた、とわたしは思うけど、、、」
「さあ、どうだろうか?」
「彼の歩調に合わせて共に歩くということは、とても難しい。時には利己的な衝動にかられて、無理矢理に引き留めたくなったりするでしょう。何もせずに静かに見守るのは、耐え難いほど苦しい、、、でも、、、」
「でも?」
「でも、わたし達がアンドレアをかけがえのない大切な友人として本当に愛しているのなら、そうしなければならないでしょう、そうすることが彼のためならば、、、」
「彼は与えられた時間の限界を、自分の意のままに、、、」
「自分の命の限界を感知してしまった、だからそっと見守ってあげましょうよ、とても、とても辛いことだけれど」
         つづく

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