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お金への執着、本当に欲しいのは「お金」じゃない

私は、福沢諭吉さんが印刷された紙が好きなわけじゃない。
紙幣で顔を拭いてもシミはとれないし、多分食べても美味しくない。
そのお金と交換できる、その先が欲しいのだ。

我が人生の最期、この世を去る時
枕元を札束で囲むより、好きな人たちの笑顔に囲まれたい。

お金への異常な執着


そんな私は、今から約20年前の結婚当初、夫から家計を任された。
だからというわけではないが、私は、お金に執着していた。
今思うと、異常だった。

お金を減らすことが許せない。
減っていくお金を見ると不安でしかたない。
だから、なるべく減らさないように生きていた。

たとえば

交通費という支出も嫌なので、徒歩圏内での生活。
一か月の食費を切りつめるため、電卓を片手にスーパーで買い物をした。
習い事、学びもお金がかかるから、やりたくても絶対やらない。
家計簿は、1円単位でつけた。

こんなケチケチ生活をしていたから、貯金は、そこそこできた。

趣味=貯金

この趣味を楽しんでいれば、それで良かったかもしれない。
しかし、全く楽しくはなかった。

このケチも遺伝なのか?
両親のことを思い出してみる。
確かに、あの二人はケチだ。
そこそこの小金持ちだったと思うが
スーパーでは割引シールの商品ばかり買っていたっけ。

なぜお金に執着していたのか?



なぜ、私は、こんなにもお金に執着していたのか?

多分、寂しかったんだと思う。

愛に飢えていた。

だから、愛=お金に替えて、ひたすら貯めた。
一滴たりとも逃さないように、ただ貯めた。

私の幼少期
愛情にあふれた家庭ではなかったと思う。

長女である私は
「お姉ちゃんなんだから」と言われつづけて生きてきた。

そのうちに甘えることができなくなった。

親が悪いわけじゃない。

愛はあるのに
それを上手に表せない親に育てられた
愛を受けとるのが下手な私。


お金が使えるようになった


多分
ホメオパシー、布ナプキンを始めて
薬やサプリメントの多量摂取をやめるようになってからだと思う。

思いきって、お金を使ってみることにした。
ものすごく勇気がいることだったけど。

良いモノにお金を投資する。
そういう発想になった。
良いモノは、やはり、それなりに高い。

添加物ばりばりのお醤油じゃなくて
ちょっと体によさそうなお醤油。

使い捨ての冷却シートみたいなナプキンじゃなくて
布ナプキン。

少しずつ体に摂取していくモノを変えたら
体がすこし元気になった。
体が元気だと、心も元気になった。

初期投資は、かかったけれど
結果、医療費削減になったり。

こういうのは
浪費じゃなくて投資といっていいと思っている。

心と体に蓄積されていた重たいモノがとれていくみたいに。
考え方も柔軟になったんだと思う。

そして、チネイザンとの出会いも大きい。

今まで奥の方に押し込められた「私」が
雪解けのように出てきた感覚。

「お金は使うためにある」

そんなふうに、考え方がかわるなんて。

氣の流れみたいに
お金にも流れが必要なんだと思う。

貯めこむだけじゃなくて、流す。

欲しいモノ、したいこと、必要なときに使う。
こうして経済も流れる。

お金がなかった時代は、物々交換をしていた。

今も同じ。
お金というモノと、欲しいモノを交換しているのだから。

本当に欲しいのは「お金」じゃなくて
その先のワクワク、キラキラ、笑顔だったり……そういうモノ。

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