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考え事#50 主体と主体性

自己や自我、フレームという概念についてだいぶ書いてきたおかげで、さまざまな物事についての認識が改まってきた。

今回は、主体とか主体性について、以前より解像度が上がったと感じる内容を述べたい。

「主体性」と「主体的」の曖昧性

まずは主体的主体性という2語について辞書で意味を確認してみる。

主体的
自分の意志・判断によって行動するさま。自主的。

Oxford Languagesより

主体性
自分の意志・判断によって,みずから責任をもって行動する態度や性質。

Oxford Languagesより

教育の分野では特に、前回の学習指導要領にて大々的に掲げられた「主体的・対話的で深い学び」という考え方から、主体的とか主体性という文脈が盛んに語られてきた。

しかし、これがそもそも「主体性育成のための」とかいう話になると二項対立が起こりがちになる。この現象がいまいちよく分かっていなかったのだが、自己と自我を分離せずに自分というものを皆が認知しているからこの対立が起こるといえる。

そもそも、という言葉やという言葉が境界を曖昧にしていると言えそうだ。○○的とか○○性という言葉は得てして、○○と似たものというような、やや周辺的概念を含むものになりがちだ。自分というモノの捉え方の曖昧さに、この付け加えられた一字の曖昧さが掛け合わさって、意見が割れてしまうのではないか。

主体と自分(自己+自我)

だから、おおもとの主体という言葉に立ち返ってみよう。

主体
1.自覚や意志をもち,動作・作用を他に及ぼす存在としての人間。
2.集団・組織・構成などの中心となるもの。
3.哲客体主観
・何らかの性質・状態・作用などを保持する当のもの。読書という行為における読み手,赤いという性質を具有する花,の類。
・(「主観」が認識論的意味で用いられるのに対し,存在論的・倫理学的意味で)行為・実践をなす当のもの。
4.機械や製品の主要部分。

Oxford Languagesより

1.の意味は、まさに自己そのものなのではないか。誰もが、「私が存在する時点で主体である」訳なので、主体性など身に付けるまでもなく、常に人間は主体的であるといえよう。

そして、2.の意味は、まさに自我そのものなのではないか。人間は文化の進歩と共に様々な集団体を構成して時代を進めてきた。その中で、自我を強化したりその過程で脱落したりしてしまう。
この文脈でいえば、まさに主体性は育成するものであり、集団・組織の構成員として、集団や組織に対する主体的行動が求められるという話も頷ける。

主体性育成や主体的態度の養成とは

これらから非常にシンプルな区分が可能になる。
主体性育成や主体的態度の養成、みたいな文脈で語られる主体とは自我ということになるので、こういう文脈では「組織を円滑に回す歯車としての自我を開発することが正義である」という結論が裏に隠されている。従って、

①「学習指導要領で定められた内容(各教科等の知識・技能)を深く学ぶ」
②「定められた内容を通した資質・能力(思考力・判断力・表現力等)の獲得」

文科省の文脈で語られる主体的態度とはざっくり言えば上記①②を前提として最適化された学びに対する主体的な自我のことである、と割り切るべきだろう。

一応断っておくが、僕は批判したい訳ではなく、この主体的自我にも大きな価値があると思っている。ただし、生まれつきの性質として、学習指導要領に定められた教科や領域に興味が向きやすい子ども達にとってはである。

学校で学ぶ内容に強い興味を示す個性を生まれ持った子どもというのは、どんなに時代が進んでも一定の割合は存在し続けるだろう。こういった個性の持ち主にとっては、この主体的自我と自己の親和性が高く、それなりにこの自我を自己の部分拡張として鍛えながら伸び伸びと進んでいけるだろう。

学びに対する主体的な自我の盲点

人の性格のうち生まれ持った性質というものは、十人十色である。たまたま学校で学ぶ学問領域に自分の興味がそこまで向かない生徒が、この主体的自我を求められるとどうなるか。

自我が自己の完全な蓋となって、自己の成長を著しく妨げるだろう。
このような状況で、昭和~平成初期の時代には不良やヤンキーが非行に走り、現在では学校に通わない子どもが急増するという現象が起こっているのではないか。

学校はどこまで行っても、「学習指導要領に定められた内容を深めるために最適化された場」としてデザインされているのだから、そこに別なもの(例えば就職のための学歴とか)を求めに行くのはそもそもお門違いである。
そのお門違いな環境が、就職のためのキャリアパスとして常態化してしまったのが学歴至上主義の社会であり、子どもにとっても、学校にとっても不幸な社会だったといえよう。

僕は公立高校で働いていた10年間、半分くらいまでの間は「学校はもっと広い目的に合うように変わらないといけない」と思っていたが、途中でこれに気付いて別なパターンも考えるようになった。(なので、ここからしばらく出てくる「学校」は高等学校だと捉えていただきたい)

学校の未来像の例

例えば、「学校はそもそも学問を学びたい人のための場であるから、方向性を大きく変える必要は寧ろ、無いのではないか。究極的には、学校は学問を学ぶためのアップデートに特化・専念すべきなのではないか。」という考えである。

学校では教えてくれない○○とか、テレビ番組やYouTube動画で沢山流れているけれど、そういうことを学べる場がこうして学校以外に沢山あるのだから、ある子供にとってはそこで存分に好きなことを学んだ方が幸せだろうし、そういう学び方をしてきた何かのジャンルに尖った若者を採用したい企業も沢山あるはずだ。

巷の良くわからない世間体とか既得権益者集団がこういうルートを今まで封じてきてしまったおかげで、みんなが無難な道として学問を選んでいる現状が異常なのであり、別ルートがきちんと開拓されて、「学校にいって学問がやりたいなんて、君は変わっているね。」と世間から思われるくらいの割合がちょうど良い、と捉えるのも悪くないと思う。

他にも色々なパターンを考えることができるが、今回はこの例に留めておく。

主体的な自己の文脈について

だいぶ話が逸れたが、最後に話を戻して、自己としての主体性について述べたい。

自己としての主体性・主体的自己は、そもそも自己が主体そのものであるといえるため、育成も強化もおかしな話である。仮に自己の主体性を育成するなどという方法があったとすれば、それは完全な洗脳行為かなにかだろう。(自己という言葉の定義がここで述べている自己と異なる場合はあるかもしれないが・・・)

その意味で、主体的自己とは「発見するもの」であり、場合によっては「手放すもの」なのではないだろうか。

この辺りの話は、また近々書こう。


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