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考え事#38 機械論的おもてなし

前回、構造化と感受性の関係について書いた。

今回は、これとやや関係しそうなテーマで書いてみようと思う。
また、自我とか自己という言葉が出てくる。この辺、自分にとって本当に興味がある領域なんだな。今回もどうぞおつきあいください。


自我強化システムとしての職業

特に、現代の職業というのは一般論として自我の強化が色濃く組み込まれたシステムだ。

そのなかでも、給料をはじめとしたお金周りの文化が持つ自我の強化機能は効果絶大だ。良い製品、良いサービスには高い対価が発生するのが当たり前のことになっている。

それ自体をとやかく言うつもりはないが、対価を多く受け取れるか否かによって人間は勝ちか負けに謎に二分化される。勝てば経済的に豊かに過ごすことができ、経済的に豊かだと、良い製品、良いサービスを受けることができる。

経済的に豊かだと、活動範囲や行動範囲が増える。自分が影響を及ぼすことができる社会的範囲も広くなる。だから、生存競争において有利になりやすい。

こういったロジックの中で経済的に豊かになるための最も簡単な(期待値が高い)手段は、ロジックに合った自我を形成することだ。

将来なるべく多く対価を得るために、
そこに必要とされるスキルを使いこなす自我を
そこに必要とされる振る舞い方ができる自我を
そこに必要とされる付加価値を提供できる自我を

みんなが努力してこういう自我を身に付けようとして、その競争から新たなサービスや商品が生まれる。

おもてなしと機械論的おもてなし

日本の美としてよく取り上げられる"おもてなし"という文化も、この種類の自我の一つの形だろう。より多くのお客様に喜んでいただけるように、よりよいおもてなしができるようになるための研修やテキストが豊富に用意されている。その結果として、必然的に"心からのおもてなし"と、"対価を得るためのおもてなし"が混在しているはずだ。

ここでは、前者を単におもてなし、後者を機械論的おもてなしと呼ぼう。
生まれつき、おもてなしの天才のような個性を持ち合わせた人間(Aさん)がいたとすれば、Aさんにとっておもてなしは自己であると言える。ここから先はやや脚色を入れてストーリー的に書いてみる(いかなる事実とも関係のない空想上の話である)。

Aさんが例えば旅館の経営者になったとしよう。
天性のおもてなし気質によって、きっとAさんの旅館は繁盛することになるだろう。観光雑誌やテレビの取材が入り、Aさんは驚異的スピードで一躍有名になる。

ある日、別の地域で旅館を営むBさんがAさんに相談をする。
「うちの旅館、廃業寸前なんです。あなたの経営手腕で助けていただけませんか?」自分の旅館が軌道に乗っているAさんは、Bさんのお願いを受けることにする。Bさんの旅館に自分の旅館のやりかた(システム)を導入するために、1からマニュアルを作成する。

こうして、Bさんの旅館にAさんのマニュアルが入り、経営改善が進んでいく。Bさんの旅館はみるみる内に立ち直り、いつも予約が満席の状態になる。

さて、ここで一つ考えてみたいことがある。
Bさんの旅館がAさんの旅館のマニュアルを導入してから経営状況が立ち直るまでの期間に、もともとBさんの旅館にいた従業員は何人退職を申し出ただろうか?

・・・

答えははっきり言って何とも言えない。多いかもしれないし、少ないかもしれない。マニュアルの中身が、"自我の変更"を導きやすいものであったかどうかが大きく効いてきそうだ。

はじめに書いた通り、Aさんは生まれながらの"おもてなしの天才"である。
天才には、自己の能力の獲得方法を知る術が基本的にはない。生来持っているものだからだ。

そんなAさんの外見だけを書き連ねたマニュアルの内容を完全に体得したとしても、それぞれの項目の背景が分からなければ、そこに完成するのは機械論的にコピーされたおもてなしということになるだろう。こうして形成せざるをえない機械論的自我に耐えられる人だけがBさんの旅館には残り、生存バイアスが正のフィードバックで増幅されていく。

Aさんにとっての自己と新入社員の自己は異なるから、Aさんのマニュアルは少なくない数の人にとってどこかしら苦しいものになるだろう。でも、そのマニュアルをきちんと守ることができればそれなりの対価を得ることができる。現代人の多くは、このトレードオフと常に向き合いながら、機械論的おもてなしの一部となっていく。

天才と行動原理

人の行動原理を理解することはものすごく難しいことだ。
今回はなんとなく"おもてなし"というテーマで書いてみたが、この構造はどこにでも存在するものだろう。

僕は、全ての人が何かの天才だと考えている。
現代の社会において、たまたまその才能が活かしやすく顕在化しやすいか、そうではないかの違いしかないと考えている。

潜在的な天才としての自分の側面があるとして、その天才的な部分は、あなた自身は知ることができない。だから、自分は天才ではないと考える。

人は成長すれば、誰もが誰かの手本となりうる。
あなたの行動を誰かに伝える機会を得たら、そこにはその背景を伝えることが必要だ。行動原理は行動と背景が対とならないと効果を発揮することはできない。

あなたの教えが誰かの"機械論的おもてなし"にならないことを願う。

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