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考え事#37 構造化と感受性

子供の頃、1年間の中に幾つか特別な日があった。
純粋に誕生日やクリスマスという家族での行事ごともそうだが、僕にとっては夏に地元の自治会で開催されていた盆踊りの夏祭りが特に楽しみなイベントだった。

子供の頃は、どんな経験も初めてでワクワクした。どんなことが起こるのかわからない、先が見通せない状況が本質的に好きなだけかもしれないけれど。

感受性の変遷

おそらく、新しいことや試行回数が少ない事象に対しては大人も子供も感受性感度が高い状態になりやすいだろう。
経験値が少ない子供の状態というのは、経験することの全てが目新しい。だから子供は感受性感度が高い。少しの変化に驚き、笑い、泣いたりする。僕はそれがものすごく楽しいと感じる子供だったが、そこの感じ方はまた人により異なるかもしれない。
感度の初期値というか、振幅のようなものは個性によるとしても、大人になるにつれて少しずつ感度が低下していくと感じるのは僕だけだろうか。

これは、成長によるものとも言えるし、そうではないとも言える。

構造化と感受性

何事も、試行回数が増えるとそこでどんな現象が起こるかについて想像できる範囲は拡がっていく。その範囲はその人の視座や解像度により異なるかもしれないが、組織のシステムによる想定、組織内の人間関係による想定、季節の周期などによる想定、そのほかにも多くの因子があるだろう。

とにかく、試行回数が増えればその出来事の周辺で何が発生しうるのか、ある種の確率分布のようなものが脳内に形成されていく。

そこには、
〇〇の行事の前はこういうパターンで揉め事が起こるよね。
というようなリスクマネジメントに役立つ知見もあれば、翻って

〇〇系のドラマは最終回はこういうパターンで予定調和が多いよね。
というような、陳腐化による期待値の低下を招く知見もある。

いずれの場合も、上述した「想定できる確率分布の構造化」が人間の成長過程のなかに認められるだろう。この知性には、実体験以外の2次情報(体験談や創作物)からも構造強化を可能とする側面があり、そこに人間が学習や勉強に基づいた社会を形成してきた根本的要因があるだろう。

しかしながら、想定できる確率分布の構造の粒度が上がることによって、先が見通せてしまうが故の飽きが発生してしまう。この飽きというものが、感受性の感度の低下と同義だということが言いたい。

先が見通せるからこそ飽きがきてしまう。
これは誰にでも理解できる感覚だろう。漫画やドラマなどのエンタメ作品は、この飽きとの闘いを常に強いられている。意外な展開に心が躍るのは、そこに自分の構築した構造に無い新たな道が示されるからだ。

実生活での飽きとどう向き合うか

就職して大人になって数年の頃、この飽きにどうしようもなく絶望した時期があった。例えば中学・高校・大学と、3~4年周期で環境を変えながら成長してきた人間にとって、社会人3年目とか4年目というのはこの絶望を突き付けられる時期だ。仕事・大人としての自分の生活の2つの面で確率分布の構造の粒度が上がり、ふと自分のこの先の人生について考えてしまう。

この先30年ないし40年、この確率分布の中で自分は生きていくのか?
そんな問いに絶望した大人が実は多数派なのではないだろうか。

大人としての安定した生活を送るというのは、ある意味でこの確率分布を受け入れるということなのだろうと思う。これを受け入れさえすれば、ある程度の安定を享受することができる。

でもその反面、構造の硬直化により感受性の感度が徐々に低下する事態も同時に訪れる。

ロールチェンジによる感受性の向上

僕の世代は、上の世代の方々からはよく”やる気とか気合が足りない”とか、"熱量が足りない"と言われてきた。自分がもっともっと若い頃は、これにいちいち反応して嫌な気持ちになった。

でも、そんな僕らの世代がいま、社会の中心を担いつつある。

構造の硬直化によって陳腐化した数々の大人を僕らの世代は知っている。あの頃聞かされてきた大人たちの言葉には、「一つの確率分布構造に対して」という但し書きがあったのだな、と僕は今では理解している。

若者の離職が社会問題になっているのは、本当のところ、ここが理由だと僕は考える。

感受性の感度が下がることがないように生きたい。
子供の頃の成長過程で味わった、ロールチェンジによる新しい自分との出会いを続けたい。

安定と感受性の維持のバランスをどう設定するか、その多様な選択肢こそが僕らの世代に渡されたバトンなのではなかろうか。

そんなことを考えた、32歳最後の夜。
64歳になった自分が、これを読み返してまだまだだな、と思っていることを願う。

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