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 ひびわれた瞳 ①

 仕切りガラスの向こうでふしくれだった手が文庫本をめくるのを止め、プラスチックのカードの束を数えはじめると遠くから電車の走行音が聞こえてきた。下部にある小窓が開き、アルミ台のくぼみから折り重なった万券がトレイと一緒にスライドされる。空は黒い雲の隙間からまだ青みがかった肌をのぞかせていた。土手を横切る群れからはぐれた一羽のカラスが、フェンスで囲われた駐車場で所在なさげにうろついている。
 下唇にぬるい感触が走る。四方を山に囲まれた地特有のむせ返るような熱気の余韻が雨滴となり、店を後にする俺の万券に黒いシミをつくった。

 薄暗い浴室で冷水のシャワーを浴びると、薄暗い部屋のベッドが低くきしんだ。
「でね、その投資家のお客さんがポートフォリオとか高値ブレイクする銘柄を教えてくれるって。それで私29歳までにマンション買うつもり。これって地方住みのメリットなの、だって都会にいようが田舎の寒村にいようが投資においてやることは変わらないんだもの」
 カビ臭い天井を見つめる俺の股の間で、女は勃起したペニスをしごきながらさかしらに聞いてもいないことを語っていた。だれかが言っていたが、ここはその手の商売をやる人間にとって最果さいはての地らしい。人は環境とタイミングでいくらでも人生ゲームの分岐を本来とは逆の方にいく。転落も成金もそれは手仕舞いの確度次第だ。しかしこの地では何かをやり直そうとする種が育つほど土がしっかりしていない。だから一度根ざしたら知らぬ間に枯れてしまうさだめなのだ。若さは時に負債と同義だ。

「たしかにそうだな」とこぼすと、女は訳知り顔で「でしょ」と言って怒張したペニスを口に含んだ。

 どこも同じ景色だった。

 雨の降る夜明けはやけに静かで、俺はそれが気に入っていた。薄暗い部屋から部屋へと行き来するのは早朝、慌ただしく駅に吸い込まれてゆく人々も、その反対方向にあるアミューズメントパークにいく俺も似たようなもので、しかしこの8年変わらずルーティンワークとしてパチンコ店に通うこと自体はそこらの会社勤めより遥かに勤勉実直ではという思いが強い。

 冬が過ぎ、感染症が沈静化した後も相変わらず人々は何かを隠したいのかマスクをし続けている。人には人の正しさがあり、それはいたって健全なことだ。整理券を引いて並んでいる時からマスクの代わりに俺の耳には最新型のイヤホンが装着されている。音楽は流さない、ノイズまみれの世界を快適に過ごすためのオブジェクトだ。

 9時、まるで高級な時計を買いに来た客を出迎えるかのような店員の笑顔が今日も薄暗いスロットコーナーに咲き誇る。
 赤を基調としたマーブル柄のフロアマットが敷かれたシマには、この店最大の導入数を誇るハナハナが整然と並んでいる。開店時からくる客の大半は新台やハイスペック機が目当てで、地味なミドルスペック、それも大当たり時のみ演出が起きるAタイプにあたり• • •をつける好きものはごく少数だ。俺は最短距離で第二入り口近くのカド台に会員カードを挿しこんだ。4桁の暗証番号を入力すると再プレイボタンが点灯する。表示枚数42000。等価交換の時代が終わると同時に、紙幣挿入口と縁を切った。隣の台は俺が昨日2600枚抜いて無難に逃げ切っている。雨の日のどこに高設定が入るか、そして週末前の金曜日はどういった配分がされるか、俺は知り尽くしていた。
 
 やることは同じ、か。俺は昨夜あの頭の弱そうな女が口走った言葉を反芻はんすうした。肘掛けに置いた左手で紅い筐体きょうたいのレバーとボタンを最小限の動きで叩く。高設定で合算1/140前後のボーナス合成確率が落ち着いてくるのは4000ゲーム以降。早くても午後2時以降、そこまではどのような展開も起こり得る。朝から張り切ったところで結果には何の因果も働かない。昨今、この機種でベルの確率差を算出するためにカチカチくんを使う手合いも少なくないが、俺は必要性を感じない。あれで設定差が現れてくるころには日が暮れているからだ。午後から座ってベルを数えるなど論外である。看破にはボーナス合算、各ボナ後の設定示唆色、ついでBIG中のスイカ確率で事足りる。無駄はなるべくはぶきたい。そうこうしているうちに筐体の花柄ハイビスカスが光り、初当たりのREGレギュラーが揃う。

 斜後ろではBIG確定のフラッシュを放ち続ける台で老人がボーナス図柄を揃えられないまま持ちメダルを損していた。俺の筐体きょうたいに反射する光もリーチ目も目障りだったが、野良猫に餌をやるのは御法度だ。店員を呼んで目押しをやらせることは風営法で禁止されている。このような手ぬるい客あっての店である。そしてこの土壌こそが俺にとっての持続的サステナブルな環境だった。

 老若男女が楽しめるゲーム性、中間設定の甘さによる高稼働、台数の普及。過度な射倖心しゃこうしんあおる規制が強まった現代でも普遍的な人気を維持したのがハナハナだった。出玉性能の荒いハイスペック機は息が短い。一時の甘い蜜を吸えても年間通せば常時高設定が入るミドルスペックのシマで立ち回る人間が収支で上回る。俺は10年先を見越してこの機種シリーズと付き合ってきた。今後も、うまくやっていくつもりだ。近々この暗証番号入力の液晶が指紋認証になってくれることを期待している。

 電子タバコの匂いが香る店内。隣の台で缶ジュースをすする若い客から人工甘味料とワキガが入り混じった複雑なクソが俺の鼻に提供される。カド台とはいえ、隣に客が座ることは避けられない。運という変数は俺たちの人生にいつだってランダム性という名の地雷を仕掛けてくる。呼び出しボタンで店員をまねき、7枚のメダルとエビアンを交換する。口をうるおす俺の隣で若い客が舌打ちを放った。第三リールでスイカの取りこぼし目。この客はいまかけがえのないものをドブに捨てたのだ。

 終日回せばボーナス回数を超えるスイカ。ハナハナの本体は実はこのスイカでもある。無演出にして無遠慮。たかが子役、しかしこのささやかな払い出しにかまけてオヤジ打ちなどしようものなら万単位で損失をこうむると、いったい何人がそろばんを弾いているだろうか。取りこぼしていたら気づかぬうちに機械割を落としてしまう仕様。ゆえの奥深さ。人々は究極の技術介入機の沼に知らぬ間にはまっている。メーカー参照では設定6で110%、これはスイカをいい加減にフォローした場合での数値。本来のポテンシャルはハイスペック機に匹敵することを大半の打ち手は理解していない。遅効性の毒よろしく、店側は目押しをしない客にすこしづつ追い銭を吸い込ませるカラクリだ。

 天分の使い道としてはあまりにもささやかではあるが、俺はこのスイカをほぼ100%フォローできることにより水を買う権利を有している。偶然は介在させない。女の乳首でもなでるかのように筐体のハイビスカスを指でこする異教徒に、本物の信仰というやつを教えてやりたい気分だ。

 皆、いつ点滅するかと筐体の花柄に目がいく。俺はリールだけを見つめている。

 誰だって興味のあるものにしか興味がない。生きるのに必死という表現の矛盾こそが人生に真実味を与えてくれる。

 この日は6回目のREGで虹が光った。
 つまり最高設定が確定したということだ。

 ※

 帰宅後、ラフィア布が敷かれたカウチでくつろぎながらNetfixのドラマを視聴した。震災をテーマにした骨太な物語と評判だったものの、今ひとつ良さがわからなかった。しかし廃墟と化したフクシマを彷徨さまよい続け、餓死したであろう牛の死骸なきがらを映すシーンは鮮烈で、俺は溶け出すジェラートをすくいながら8年前の、過去の断片を拾い上げていた。

 アスファルトにう毛虫をカラスがついばむ
 不快指数なんて言葉を知らなかった時代。
 裸足にサンダルでどこにでも繰り出して、
 感情のままに確率の危うさに魅せられ
 わからないものをわかろうともせず
 なにが牙をむくかも知らなかった
 
 雨の日の自販機  
 違う飲み物がでてきた日
 あいつの部屋で語り明かす夜
 
 真夜中の公園
 切れた蛍光灯の下で
 三つの影が伸びている
 
 遠まきに眺めていれば美しい
 でもそれは、悪夢の前ぶれだった

『パチンコ、パチスロは適度に遊ぶものです。のめり込みに注意しましょう』
 さわやかな店内アナウンスがイヤホン越しに響く。
 脂でべとついた筐体レバーの樹脂とボタンを備え付けのウェットティッシュで拭いていると、深爪した指先がかるく痛みだした。
 カチ盛りもそこそこに2箱目のドル箱を用意する。出玉アピールは興味がない。設定6をツモろうが展開だけは知りようがなく、毎回抽選の機種にいつどこで当たるかを考えていても不毛なのだ。習慣というのは恐ろしい。きたるべきハマりを想定して、下皿は目一杯、ドル箱はザル盛りにしていつでもくずせるような構えは限度枚数近くまで貯メダルを保有しても変わらない。性根だけはいつまでたっても、というやつだ。店内BGMとスロット台の効果音が鳴りやまぬシマでかぶり• • •をふった俺の口から吐息まじりに奇妙な声がもれる。好む好まざるに関わらず、リスクとは常に共生する運命にある。ただそれだけのことだ。

 耳鳴りを感じはじめたのはその日からだった。

 カプチーノみたいに濁った川を眺めながら草いきれのする土手沿いを歩き、パチ屋と反対の方角へ向かう。週末、客入りも倍率も高まる日はピン打ちにとってメリットが少ない。けんにまわる日だ。つい住処すみかと川をへだてて建つパチンコ店。この2点間を結ぶ半径内、差し渡し700m内で基本的に俺の生活は成り立っていた。川の南側の交差点にかかる陸橋から見下ろす道路は、線路と同じ色をしていて、それは今日の川とも同じ色だった。たしかアンナ・カヴァンとかいうヤク中の文豪が、氷の世界を逃亡不可能な牢獄と称していたが、真冬の氷雪が消え去ったあともこの黒褐色の町は俺にとって檻といって差しつかえないものだ。〈to be こんてぃにゅんご〉

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