Mustに反発する「若者」の背景  ⑵Mustの形骸化

目次
Mustマインドからの脱脚-前書き
前回記事
Mustに反発する「若者」の背景 
⑴Wantの多様性

前回はWantの変化(=多様化)について述べた。

Mustの量的な変化については、以前の記事でも簡単には述べている。

Mustマインドとは ⑴現代社会とMustマインド
https://note.com/bppmnm172/n/n62097ea687d0

ここでは、「若者の目線で見た質的な変化」について、もう少し焦点を当てて考えてみたい。

Mustの形骸化

ちなみ自分は30代前半のゆとり教育の走りの世代であり、それが若いかどうかは置いておくとして、10代~20代の「若者」の目線で見たときに、今のMustの何が問題か、を考えると、やはり「Mustが形骸化している」ということに尽きると思う。

前回の記事でもふれたが、小学生のゆたぼんが小学校に通わなくなったのはそのことを象徴していると思う。

つまり、なぜMustであるのか誰も説明できないことこそが、今のMustの本質的な問題ではないだろうか。

その要因として、もちろんWantが変化・多様化したことによる乖離というのももちろんあり、それはすでに述べた通りた。

その一方で、Must側を見た場合はどうか。

外見上それは「継承」されてきているように見えるが、その実は「劣化コピー」されてきているだけなのではないか。

繰り返しにはなるが、すでに時代にFitしなくなったMustに我々は取り囲まれ、そして、そのMustは年々増え続けている。

この状況を表すものとして「ネガティブ・パーフェクト」という言葉がある。

【創案に潜む「落とし穴」(2)ネガティブ・パーフェクト】問題の根源となる要因をすべて取り除くことを解決案とすることである。例えば、「子供がケガをするから」といって刃物の取り扱いを一切禁止するような解決案である。これは担当者の責任逃れの解決案であることが多い。
https://twitter.com/zentaikan/status/23157141091131392

これは「問題解決の全体像」において、中川邦夫が提唱しているもので、あまり一般的な言葉ではないかもしれない。

要するに何かあったらとにかく禁止する、ということである。

これは思い当たる節がある人も多いと思う。
というか、昨今の日本においては思い当たる節しかない。

公園からはどんどん遊具がなくなっていき、ボール遊びも禁止されている。

むしろ「公園で遊ぶ声がうるさい」ということで、(交流の場としての)公園自体が消滅してきている。

新しいテクノロジーなんかも「得体が知れないのでとりあえず禁止」というのは学校・大企業・政治など「お堅いイメージ」の団体の得意技だ。

つまり、「なぜ大丈夫か。確実に大丈夫な方法はあるか」が証明できない限りはとりあえず全面的に禁止するという手法である。

そんな石橋を叩くどころか、成分分析や気が遠くなるほどの強度試験みたいなことをやっていつまでたっても前に進まないうちに、別の誰かが新しい橋を作ってとっととあっち側に行ってしまうから日本は衰退の一途をたどってしまうんだ、的な話はまた別の機会にするとして、とにかく、「とりあえず禁止」という積み重ねもあり、Must(not)は日に日に増えて言っている。

そして、問題はその「Must(not)」の理由がはっきりとしないままただただ継承されているということだ。

極端な事例として、ネガティブ・パーフェクトを上げたが、要するに問題の本質は「Mustが引き継がれるときに、その理由・背景もセットで引き継がれずにその形式だけが残る」ということが考えられるのではないか。

赤信号を渡ってはいけないのはなぜか。

赤信号を渡ってはいけないのはなぜか。
「事故を回避するため」というのが一般的だと思うが、本当にそれだけだろうか?

そもそもなぜ信号は存在するのか?

事故もひとつの側面だが、「交通整理をして車の流れを促進する」というのも、もう一つの側面としてあるだろう。

つまり、人と車が好き勝手に往来していては、事故の確率もあがり、移動効率も落ちてしまう。

そのために信号を設置して、交通整理を自動で行っている。

では、信号無視は本当にいけないことなのだろうか?

この問いは簡単なようで実は深い。

「車・人が来ていなければよい」をいう考え方もあるだろう。
では「来ていない」ことは誰がどう担保するのか。

当然、基本的には無視をする本人が「責任」を負うことになるわけだが、実際に事故が起きたときのことを考えると、例えば信号無視の歩行者を車が引いてしまったとしても、100%歩行者が悪いということにはならない。

つまり歩行者が無視をした場合、法的責任上は相手にも発生し得ることになり、誤解を恐れずにいえば「相手にも迷惑をかける」ことになる。

これは、今の法律が一定の基準で事故の責任を決めなければならない仕組みになっている以上仕方がないことであり、これ以上やりようもないだろう。

だから、信号を無視する場合は、「自分の被害」だけでなく「相手への迷惑」も含めて責任を負わなければならない。

だからこそ、万が一信号を無視するとしても、慎重に慎重を重ねるべきである(これは信号無視を奨励するものでもないし、私が日常的に信号無視をしているということを示しているわけでもない。信号は守りましょう)

実際そこまでのことを踏まえた上で、「信号は守ろう」という教えを継承できているかというとそうではないし、教わる側もそこまで考えるつもりもないだろう。

また、そこまで考えているかどうかは別として、果たして子供がそこまで考えられるだろうか?
あるいは、判断力が鈍ってきた高齢者は?またさらに判断力が皆無に等しい酔っ払いは?

もしくは、信号を無視しても絶対に大丈夫と言えたり、責任の所在をはっきりさせられる技術はあるか?

おそらくそれは今の技術ではまだ難しい。

だから、「信号は守りましょう」と一律で言うしかなく、「赤信号は渡らない」という制度は、おおむね妥当であると言える。

致し方ないが、こうして「中身が伝わらないMust」が1つ増えるのである。

義務教育は誰のMustか?

では、「義務教育」はどうか。
そもそも「義務教育」とは一体だれのMustなのだろうか。

今の義務教育の制度が設定されたのは1947年、GHQの占領下のことである。

実際にはその以前から小学校の制度はあり、小学校も無償化していたが、今回は今施行されている制度の背景を考えたい。

今の教育制度は、「何のため」に作られたのか。

学校教育法に「義務教育として行われる普通教育」については次のように定められる。

第21条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成18年法律第120号)第5条第2項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
・学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
・学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
・我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
・家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。
・読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。
・生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
・生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
・健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。
・生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。
・職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。

上記の「目的」については、もっと深く読み込んだ議論をすれば改善の余地はあるだろうが、ここでは一旦妥当であるとする。

ただし、本目的だけを見ると、それを「学校という場で行う必要が果たしてあるのか?」という疑問も浮かぶ。

それについては、以下のように定義されている。

就学義務とは
 就学義務とは、日本国民である保護者に対し、子に小学校(義務教育学校の前期課程、特別支援学校の小学部を含む。)6年間、中学校(義務教育学校の後期課程、特別支援学校の中学部等を含む。)3年間の教育を受けさせる義務を課したものです。
 就学義務については、憲法第26条第2項で「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」と規定されており、また、教育基本法第5条第1項に「国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。」と規定されています。
 これらの規定を受けて学校教育法に就学義務に関する具体的内容が規定されています。
 学校教育法では、第16条で「保護者は・・・子に9年の普通教育を受けさせる義務を負う。」とあり、次いで第17条第1項で「保護者は、子の満6歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満12歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校義務教育学校の前期課程、又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う。」とされ、同条第2項で「・・・子が小学校の課程、義務教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部の課程を修了した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十五歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを中学校、義務教育学校の後期課程、中等教育学校の前期課程又は特別支援学校の中学部に就学させる義務を負う。」と規定されています。
文部科学省HP
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/shugaku/index.htm

つまり日本では「教育を受けさせる」のではなく、「就学させる」ことが義務になっている。
要するに「学校に入学させて、教育を受けさせること」が義務なわけである。

この「Must」は、果たして妥当であると言えるだろうか?

この「就学」という定義については、制度が設定された当時は妥当だっただろう。

当時はネットもなく、家庭教師が個別に授業をすることや、それによって一定の教育水準を担保する仕組みもなかった。

全員を一同に集めて、一定のカリキュラムで継続的に教える方が効率が良いし、「学校に通う」という手段は極めて妥当だ。

しかし、前回にも述べたようにテクノロジーが発展し、教育や学習のメカニズムについても当時と比べれば多くのことが解明され、実践されている中で、「就学」のスタイルがMustになっていることが本当に妥当かどうか検討の余地があるだろう。

さらに言えば、これは前回に述べた通りに、そもそもWant自体が多様化しており、様々な職業が世の中にある中で、学校で教わることと子供の興味が乖離してしまっている状況である。

そのため、「学校に行く必要性もわからないし、勉強をする必要性もわからない」ということになる。

もしこれが仕事であれば、自ら当事者意識を持って必要性を確認していくことが当然重要となるが、子供にとってみれば当事者であることを意識すればするほど、必要性を感じられなくなることだろう。

では、その必要性は誰が教えてくれるのか?

少なくとも学校では教えてくれないのが現状だろうし、仮に自分が子どもからのこの問いに答えよと言われても、簡単に説き伏せる自信はない。

学校に通わさなければならない親と
学校に通ってもらわなければならない先生と
学校に通わなければならない子どもと

少なくとも、それぞれが「Must」でドライブされている間は、その「必要性」を真に理解できることはないだろう。

こうして、「学校」というMustは制度が制定されてからずっと、その意味が問われ続けている。


さて、赤信号と義務教育を事例に、いかにMustが形骸化しているかを述べてきた。

ここで1つ疑問が残るだろう。

「そんなことは、昔から誰もが思ってきたことじゃないか?なぜ今それが問題になっていると言えるのか?」

次回、その問に応えていきたい。

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