Mustに反発する「若者」の背景  ⑶「脱・Mustモデル」への気づき

目次
Mustマインドからの脱脚-前書き
前回記事
Mustに反発する「若者」の背景 
⑵Mustの形骸化

前回はいかにMustが形骸化してきてかについてについて述べ、それが若者にとっての問題となっていることを述べた。

今回は、前回の結論に対して想定される
「そんなことは、昔から誰もが思ってきたことじゃないか?なぜ今それが問題になっていると言えるのか?」
という問いに対して答えていきたい。

気づきを得る機会の増加

結論から言うと、これまで述べてきたような状況の中で、若い人ほどMustに反発するトリガーとも言うべき最大の理由は、「それが決してMustではない」という情報を得る機会が増えたためだろう。

まず、これまで述べてきたように、Must自体は増殖を続けている。
そして、一部は改廃されながらも、時代にFitしないMustも残り続けている。

そうすると、そのMustに従わない人は当然出てくる。

これは決して今だからそうなのではなく、Mustが1つでもあれば一定数は反発し得るし、数の多少はあれど、昔からそういった「外れ者」はいただろう。

MustとWantの乖離については先に述べた通りで、それによって多くの人が反発を感じるようになっている。

しかし、過去と比較して決定的に違うのは、「従わなくてもよい事例」を知る機会があるか、という点だろう。

それやはり、ネットとテクノロジーの進化によって、誰もが「情報発信が可能になった」というのが大きい。

例えば、バブル以前の時代にも「外れ者」は今ほどじゃないにせよ、普通に存在していただろう。

しかし、その人のことを知れる機会は少ない。

知れるとしたら、例えば映画やテレビに出ている人、本を執筆している人、スポーツ選手、などになるだろうか。

そういった、いわゆる「有名人」は一般的な成功モデルとはかけ離れていると言えるが、それを見たとしても「この人達は特別」と考えるだろう。

しかし、今の時代は誰もが情報発信が可能になり、YoutubeでもFacebookでも、このnoteにおいても、どこまで直接的かはおいておいて、「自分も普通ではない、特別な存在である」ということを、誰もがこぞってアピールするようになった。

つまり、誰もに共通の成功モデルなんてそもそもなく、仮にそれがあったとしてそのMustに従う必要もない、ということを、数多くの事例から知る機会が圧倒的に増えたと言える。

そのために、「なぜMustに従わなければならないのか?」という問いが、「Mustに従う必要なんてない」というより強い確信に変わる機会が、圧倒的に増えているのでる。

幻想とは知りつつ、憧れていた外の世界が、実は幻想ではなかったということに気が付く人が増えてきたということである。

確かに、プロ野球を始めとしたプロスポーツ選手は昔から子供(男の子)の憧れの的であり、今はそれがサッカーやeスポーツになっているという点では変わらないかもしれない。

しかし、特にYoutuberやアイドルが上位にランクインしていることが、「自分もなれる」という、より現実的なMustからの脱却手段として選ばれていることを象徴していると言えよう。

「みんなとは違う、自分だけの成功モデル」と、考えているものが実は、結局メディアにコントロールされた幻想でしかない、という指摘はあるかもしれない。

しかし、「共通のモデルはない」「Mustに従う必要はない」と考えるようになった影響は大きい。

なぜなら、市民・国民を管理する側からすると、全員が一様に同じことを考え、目指してもらっていた方が、進むべき道も提示しやすく、支持も得やすい。そして何より「管理」しやすい。

それが今のように欲求が多様化し、既存のMustに従わず、反発する人が出始めると、当然Mustの見直しが必要になるわけだが、「一律に管理をする」という観点である以上は「中庸点」を探る必要があり、それをこれまでのような「一般的なモデル」がない状態で探るのは困難を極める。

つまり、これまでの「管理モデル」を変えなければ、「若者」の思い・行動は制御できない中で、依然として古いパラダイムの中での変革しか行えていないために、「若者」のフラストレーションが溜まっているのである。

きっとこの先も、いかにMustから抜け出せるかが「若者」の興味の中心になっていくだろう。
それが果たして国として健全な姿であるかというと、少なくとも理想的な状態とは言えない。

Mustマインド問題顕在化の総括

これまでの話だと「Must」そのものが悪のように見えるかもしれないが、そうではない。

特に日本において戦後以降、Mustに依存しすぎてしまったことと、時代(=各個人のWant)にFitしないMustがあまりにも増えすぎてしまったことを問題視している。

やはり、社会秩序を保つためには、しかるべきポイントにMustを持たざるを得ないだろう。

そのポイントがズレてきているということである。

今は、テクノロジーの急速な発展に端を発し、社会が急速にパラダイムシフトしていく中で、旧態依然なMustの見直しが必要な中、最初こそネガティブ・パーフェクトで対処してきたものの、それすらも通用しなくなり、問題発生個所も規模も既存の管理モデルでは手に負えなくなってきていると言える。

では、どういったモデルでMustを再定義していくのか、というのは社会システム的な話になるので、一旦それは頭のいい人達にお任せするとして、その状況の中で、「個人としてどうしていくべきか」というのが本シリーズの論点である。

そしてその結論として「Shallマインド」をあげている。

次回以降は、また改めてShallマインドの必要性について考えていきたい

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