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文章が読めなくとも、日記は書ける

僕には一年のうちで、数回だけ文章が読めなくなってしまう期間がある。それに具体的な原因があるのか、ないのかは分らないけども、生活を送る上で文章が読めなくなることがそれだけで、どれだけ不便であるかをその度に思い出す。

この文を書いているときですら、数行前のことはあまり読めない。単語が並んでいて、それが文章であり、さっき自分がキーボードを叩いて書いた単語たちであることは認識できる。ただ、それが意味のあるまとまりとして理解できない。
恐らく、集中力か記銘力が数秒しか持続しないときにそういったことが僕の脳には起きてしまうんじゃないかと思う。

普段の僕はその前の言葉との関係性とか、繋がりを考えて文章を書いている。だから、PCに写し出されていく自分から出てきた単語の羅列を眺めながら次に出てくる言葉を自分の中から探す。ただ、こういったときには、その前までの単語や文にまとまり性が掴めなくなってしまうので、浮かんできた言葉をただひたすらにキーボードを見ながら叩きだしていく。
文字の羅列を見ると頭が痛くなってくるし、「うぇ」ってなる。

自分の文章もさることながら、こういうときには本も参考書も読めなくなる。読んでいても、頭の中までで入ってこない。音読することはできるし、黙読することもできる。ただ、それらが僕の頭の中の何とも結びつかない。
例えば、満腹な状態で街中で「吉野屋」とか「マクドナルド」とかの看板を見かけたとしても、それは視覚的には見えているけども、頭の中まではきちんと入っていないと思う。反対に、空腹なときに見る「吉野屋」や「マクドナルド」は視覚的に見て、頭の中で注意を向けてしっかりと認識する。そして、僕だったら「吉野屋」に入っていく。
そういうことが今の僕には、日常の読む行為全般に発生する。こういうときはいよいよ自分の中の何かがおかしいな、異常だなと気づくサインになる。ただ、それを受け止めた上でそれをやり過ごしていくしかない。

僕のこの現象はだいたいにおいて、元気ではないときに起きる。
気持ちが沈んでいるとき、ただひたすらに無を得たいとき、静かであるべきとき。そういったときに本能的に、文章を読み新しい情報を摂取することは規制しているんじゃないかと思う。僕らは色んな情報に触れることで、ワクワクすると同時に気づかないうちにエネルギーを消費していることがよくあるのだろう。それを中断するべきだと脳が、体が教えてくれているのではないかと思っている。

ここ数日間は勉強もできないし、本も雑誌も読めない。新聞は辛うじて目を通すけども、ほぼ無意識のまま右目から左目に抜けていく。
そうやって、なんとか元気じゃない日でもやり過ごしている。けども、文章が読めなくなると、日常生活においてもかなり不便で、ほぼ一日中何もできなくなることが多い。けども、時間がそれらは解決してくれると信じて、ただ辛抱するしかない。僕の出来損ないの脳を恨むばかりである。

それでも、なぜか自分で文章を書き連ねることはできてしまう。それはほぼ無意識のまま、そしてかなり自然発生的な文章である。
数秒前に書いた文章を見ながらではなく、意識の底の方から出てくる文章を流れに任せて書く。論理的な文章のつくり方というよりも、感覚的で偶発的な文章のつくり方だから、脈絡のない文章になっていたり、普段は使わないような言い回しになってしまったりすることもあると思う。
こういったときに僕が普段、いかに慎重に言葉を考えながら文章を書いているかが身にしみてわかる。僕の臆病な側面が文章のつくり方にも表れているのかもしれない。

この特別で不便な時期であっても、この文章を書くのと同じようなやり方で日記も書ける。
今日も一日中、ほぼ一文字も文章を読めなかったけども(特に今日は新聞が休刊日だったので、ほんとうに一文字も読めていないんじゃないかな。昼間に暇つぶしで入ってしまった「吉野屋」のメニュー表以外では)、日記はスラスラ書けていた。これには少しほっとした。
こういった時期には自分が実のところ、文章そのものが好きではなくて嫌いなんじゃないかとか、文章というものが苦手なんじゃないかと疑ってしまう。文章に、そして言葉に見捨てられたんじゃないかと妄想さえする。
ただ、文章は読めなくても、文章は書ける、日記が書けるというその一つで少し僕の心は安心する。文章すら書けなくなり、自分で言葉を綴ることすらできなくなると、そのときはもう終わりだなとも思う。
本も読めず、文章が読めなくなり、最後には日々の日記も書けなくなる。それは僕にとってかなり致命的なことなんじゃないかと思う。

文章が読めなくとも、日記を書ける。
それは僕が不便な一日を送る中で唯一の救いだなと気づいた日でした。そして、それは恐らく救いでありつつ、生きる意味にも繋がることなのかなとぼんやり思う。
日記というものが辛うじて、僕を僕たらしめる。


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