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「ここではないどこか」なんてない

子どものころ、目の前のつまらない毎日から逃れるように、本の世界に没頭していた。
持ち主が寝静まったころにしゃべり始めるやかんとか、ドタバタ悪さをする三つ子のキョンシーとか、空から落ちてくる魔法使いとか。
もちろん、自分の住んでいる世界と本に書かれているような世界は違うもので、ファンタジーな不思議が自分の前に現れることはないとわかっていた。ただ、今いる「ここではないどこか」がきっとあるのだと信じていた。

「転校生」になったことがある人は、どれだけいるだろうか。
自分の家の庭のように親しんだ土地から離れたことがある人は、どれだけいるだろうか。
11歳の秋、父の転勤に合わせて次の春に転校することを告げられた。
当時のことをよくは覚えていないけれど、少ないなりに親しかった友達や、とてもかわいがってくれていた図書室の司書の先生の顔が浮かんだと思う。
あとついでに、幼稚園から一緒で小学校六年間も同じクラスでいることが決定していたヤツの声も聞こえた気がした。
「ウワッ、ずっとお前と一緒なのヤダ!最悪!」
自分が転校するのだと伝えたら、ヤツは喜ぶのではないかとか、そんなことも考えた。
「ここではないどこか」にいくことになるのが、こんな形になるなんて思ってもみなかった。

人生にはやはり場面転換が存在しているのだと、引っ越しを経験した私は考えていた。
ページをめくったらお話の舞台が変わっているように、カットが変わってフォーカスされる人物が変わるように。何か大いなる力により場面が切り替わり、リフレッシュしたお話が始まるのだと。
そう思うしかないほど新しい環境はそれまでとちがっていた。
公立小学校なのに制服があるため毎日スカートをはかされ(前の小学校は私服でズボン派)、算数で筆算するときには定規を使わなければならず(生まれて初めてそう指導された)、週に数回しか開放しない図書室(学校で一番好きな場所は図書室なのに)……。
そのすべてがショックだった。なぜこんなにも違うのか、なぜ以前と同じことがここでは許されないのか、と聞いても、誰も答えてくれなかった。
「前とは違うんだ、切り替えてやっていかないと馴染めないよ。」
大人も子どもも口をそろえてそういった。そんなことを聞いているんじゃないのに。
喉から血が出るような、頭が沸騰するような怒りがあった。だけどその怒りをぶつける先を見つけられなかった。場面が変わったからしょうがないんだと、その時のわたしは飲み込むしかなかった。
「ここではないどこかは」、ここではなかったのだと言い訳ばかりがうまくなった。

その後また家の都合で引っ越しをしたが、やはりカルチャーショックは存在した。
もうこうなってくると、自分が今まで正しいと思ってきたことがすべてアホくさくなってくる。そしてやはりわたし自身に怒りを発散する気力もなく、腹の底で煮えているものがいつか冷やされておとなしくなるか、これをきれいさっぱりなくせる魔法に遭遇することを願ってばかりいた。
自分の怒りを持てあますことに疲れていた。
自分の怒りの扱い方を知らなかった。
場面転換が起きたのに、どうしてこの怒りは収まらないんだろう、どうしてわたし自身は新しくなれないんだろう。
「ここではないどこか」にいければ、この消化しきれない何かは消え去るのだろうか。
毎日が夢想の中だった。ここではないどこかへ、ここではないどこかへ。
目の前のものに向き合えない人間がいける場所なんてあるのだろうかと、わたしは考えることをやめていた。

振り返ると、言い訳と逃避を続けていた人生だった。
「ここではないどこか」を追い求めたわたしは、今やすっかり閉塞感と仲良くなっている。ここでさえなければ、そこにいければ。そんな幻想にかじりついて、ずるずると毎日をこなしてきた。
腹の底の炎は、まだ残っている。
もしかしたら、この炎は、この怒りは、自然になんて消えないんじゃないかと、近頃になって気が付いた。
だって、怒りのきっかけになったものはもうすでに過去のものだ。過去を燃やしても得るには勢いがありすぎる。
じゃあ何がそんなに。そう自分に問うた時、すでに答えは見つかっていた。
この怒りは、他の誰でもなく自分に対してのものなのだ。
理不尽さに震えるほど怒りながら、結局受け入れた自分に対する怒りが、いまだに腹の底で燃えているのだ。
言葉にもできないような理屈でわたしの訴えを言いくるめようとした周囲の人間や社会じゃなくて、それを飲み込んでものわかりのいいふりをして言い訳して、逃げているばかりの自分に、腹が立ってしょうがないのだ。

本当に自分に向き合って生きようとすれば、「ここではないどこか」なんて必要ないんだろうと、自分の中の炎を見ながら今思う。
自分自身がそうだと思えば、いつだってどこだって、今いる「ここ」が「ここではないどこか」なはずだ。
舞台だけじゃない、ストーリーも、演出も、舞台も、登場人物も全部、今ここで、わたしが自分で決めないと、この怒りは収まらない。
そうすることと向き合わないと、わたしは一生逃げ続けることになる。
気づいてしまった以上、もう、逃げるわけにはいかないのだ。

というのを、先日「マッドマックス 怒りのデスロード」を観て思いました。
観るのは二回目だったのですが、初めての時はぴんと来なかったニュースの生きざまのまぶしさに、ぼろぼろと涙を流してしまいました。あ、待ってちょっと今も泣きそう。
彼は、当初現世への期待は持たずイモータンジョーにとって都合のいい幻想の世界を生きていました。ただそれが旅の中でどんどん変わっていって、ついにはその瞬間瞬間、自分の目の前にあるものに向き合い、力を振り絞り続けて散っていきました(嗚咽)
行って帰ってくる物語で、彼は帰ることはできなかったけれど、あるべき姿になる、自分自身になる境地に彼は至ったのだと思います。わたしは、彼のように自分自身になって生きたいのだと、心が震えました。
「ここではないどこか」の幻想を求めるのをやめたわたしの道中もまた、怒りのデスロードにしたいものです。


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