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あの日、あの街で、彼女は。〜溜池山王駅〜

「あの日」の重なりに、馳せる思い。

"数字"に怯える月末最終日、8月31日17時10分。16時30分から始まった商談が思いのほか早く終わってしまった。西日が照りつける夏空を見上げて、深い息を吐く。

溜池山王駅を訪れるのは、就職活動の一次面接以来だった。大阪と東京を夜行バスで行き来し、志望度が高かったのに、面接であっけなく落ちた。こびりついた記憶は、テンプレ文をコピペした不採用メールみたいだ。

一つ前の訪問先の新宿駅から溜池山王駅に向かう。期待と緊張で胸が張り裂けそうだったあの日と、奇しくも同じ行程をなぞる。東京メトロ丸ノ内線から乗り込み、赤坂見附駅で向かいのホームの銀座線に乗り換える。

改札口を抜け、就職活動時とは別の出口に向かう。行き場のない湿った空気が充満した地下から抜け出して、思わず深呼吸をする。ビルの隙間から差し込む太陽の光が眩しい。ジグソーパズルのピースみたいな狭い空から視線を下ろし、横切る首都高とだだっ広い交差点に、忙しなさを覚える。

襟元がネクタイ風のくすみブルーの半袖ブラウス、花柄の刺繍が入った真っ白なタイトスカート、ネイビーの9cmヒール、あの日と同じポニーテール。白黒しか纏えなかったあの日の彼女の影はない。

受付のお姉さんと警備員がいるオフィスビルに到着した。冷えた空気が充満した入り口で、ぬるくなった水を飲む。メールのやり取りを見返しながら、担当者が優しい人だといいなと月並みのことを思う。汗で乱れた前髪を整え、テラコッタ色のリップを塗り直し、折り返した袖口に花柄の刺繍が透ける無地のネイビージャケットを羽織る。

夏シーズンのお気に入りコーデで挑んだ初訪問は、可もなく不可もなく終わった。担当者はちゃんと話が通じる優しい女性だったけど、稟議は時間がかかりそうだ。粘り強く向き合うことを心に誓う。

少し先の未来を描くのも束の間、今日は月末最終日かつ上期締め会だ。元々受注は見込んでいないとはいえ、ひっきりなしに数字が変動する時間帯にのこのこと帰るには勇気がいる。もちろん直帰は許されない。家には帰りたいけど、オフィスには帰りたくない。そもそも締め会が何時から始まるかさえわからない。

溜池山王駅の地下にスタバがあるとGoogleマップが教えてくれた。お気に入りのエスプレッソアフォガートフラペチーノを頼んで、テラス席に座る。仕事終わりなのか、仕事中なのか、ほとんどの人がパソコンとにらめっこ状態だ。

溜池山王駅からオフィスに戻るルートを調べては、2分間隔で発車する電車の本数と、たった10分ほどの乗車時間に、戦慄するだけだった。一生懸命に着飾って、憧れの街で働いているのに、都会の日常に憂いを感じるなんて滑稽だ。

「自分で選んだ道でしょ?」と脳内で声が響く。

記憶が交錯する中、「何者か」になりたかった彼女を思い出す。

あの日、あの街で、彼女は。


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※基本的には経験上のノンフィクションですが、お客さん情報の身バレを防ぐために一部フィクションにしています。

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