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あの日、あの街で、彼女は。〜大島駅〜

たった一度だけ、主人公っぽい瞬間。

その日は、イレギュラーだった。いつもは本社にいる担当者が別の営業所にいるとのこと。変更に対する形式ばった謝罪と、詳しい住所が書かれたメールを受け取る。前日の定時直前のことだった。住所は「江東区大島〜」、都営新宿線沿いだと分かり、直行に決める。

都営新宿線は、新宿から千葉方面に西大島→大島→東大島の順で進む。東大島駅は荒川の手前だ。 

初めて大島駅に降りたときの記憶は、正直覚えていない。普段使わない電車に乗るときに限って、遅延する。ギリギリ間に合うか、担当者に連絡すべきか、絶妙な判断に迫られていた。連絡しなくても間に合いそうだと自分の勘を信じる。

電車を降りて、どの地上出口に向かうか、地上に出たらどっちに向かうか、何を目印に進むか、緻密な脳内シミュレーションを練っていたら、大島駅に着いた。電車のドアが開くと同時にダッシュする人を見たことがあるだろうか。あの日の彼女は、ダッシュする側の人だった。

倍速で流れる街並みも人混みも、完全に背景と化した。スクリーンに映る背景は覚えていても、自分自身の背にある光景は分からない。カラフルなガラクタに思えた。全力疾走してると主人公に錯覚する現象に名前をつけたい。

絶妙な判断を迷っていたとき、取らなかった選択肢がある。それは大島駅より1駅先の「東大島駅」まで電車に乗ってから、歩くことだ。大島駅と東大島駅の間にある営業所、結果的に東大島駅に近かったのだ。痛恨のミス。走って汗だくになるより、キンキンに冷えた電車内に1分でも長く乗っていたかった。

結果的には、間に合った。呼吸を落ち着かせて、汗がひくのを待って、ちょっとぬるくなったペットボトルの水を飲む。

訪問が終わる頃にはお腹もペコペコで、絶対にランチを食べてから帰ると心に決めて、歩き始める。「ファミレス」と調べていたら、ロイヤルホストが見つかって、無性に行きたくなった。西大島駅方面だった。初めて降り立ったのに、東西の大島まで制覇するなんて。

ほどよく涼しい店内、優しそうなオーラに包まれた男性に案内され、ソファに座る。沈むが正しいかもしれない。ふっかふかのベッドかな?と錯覚するくらい、座り心地も触り心地もいいソファだった。おそらく王道のハンバーグランチを食べる。求めてたジューシーさだ。

もうこのままオフィスに戻りたくない。パソコンを開いた途端に、騒がしい声のほうを向くと、近所に住んでるであろうおじいさんとおばあさんの6人組がやってきた。しかも隣の席で、ワインで乾杯し始めた。一気に場違いの雰囲気に取り残される。イヤホンでシャットアウトして何事もないフリをしていたが、内心は羨ましさでいっぱいだった。

背景と化した街の中、モブキャラになってしまった彼女を思い出す。

あの日、あの街で、彼女は。


*プロローグ

*マガジン

※基本的には経験上のノンフィクションですが、お客さん情報の身バレを防ぐために一部フィクションにしています。

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