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あの日、あの街で、彼女は。〜横浜駅〜

師走の挨拶巡り、別れ際の言葉。

「年末もしくは年始のご挨拶に伺いたいのですが…」デスクの右端に置いた卓上カレンダーを眺めながら、体のいい言葉をここぞとばかりに電話口で繰り返す。毎年のことながら、年末年始と年度の変わり目(特に上司が変わったとき)は、幾度となく「ごあいさつ」と口にしていた。

テトリスが隙間なくハマるように、Googleカレンダーのスケジュールが埋まっていく。12月3週目、3社分の横浜支店巡りデーが完成した。電話だけで会えていなかった担当者と、普段は都内の支店に出向いてくれる担当者。たまたま横浜にいるからせっかくだしと、受け入れてくれた担当者。

年末年始キャンペーンのチラシを一番上に、いつもの提案資料をファイルに挟む。名刺を多めに準備して、初訪問に備える。そして、年末年始の訪問でもっとも重要かつ爪痕を残せるアイテムが、卓上カレンダーだ。

競合各社とも揃いも揃って、卓上カレンダーを持ち寄るタイミングだ。たった一部では心許ないし、複数人いる担当者全員に渡すには手厚すぎる。取引額で判断するドライな側面と、人間関係を円滑にするためのソフトな面と、塩梅が難しい。

とはいえ、営業と顧客という関係性以前に、「人として」信頼関係を築くことがいかに大事か。会社単位だけではなく、競合の担当者とも差別化を図らなくてはならない。カレンダーを包む透明のビニールに、手書きでメッセージを添える。どうせ捨てられる部分だけど、どうか記憶には残りたい。

大切に準備したものとパソコンと充電器をカバンに入れ、キャメル色のロングコートを羽織る。透き通った水色の空から、やわらかな日差しが降りそそぐ。マフラーの出番はもう少し先になりそうだ。

都心から横浜駅まで直通の地下鉄に乗り込む。JR線に乗っても一本で行けたが、時間は誤差程度しか変わらないので、“最安値ルール”に則る。

横浜駅はダンジョン駅上位にランクインしていて、方向音痴の人は確実に苦しめられる。大学時代に梅田駅(大阪駅)を、上京して数年で新宿駅を制覇した彼女は、未知なる壁にぶつかった。出口に向かう途中で、案内表示が消える現象に名前をつけたい。

すべての訪問を無事に終えた。想定外のことも起きず、平和な一日だった。白い息を目いっぱい吐きながら、照らされた夜道を駅まで戻る。また来年、横浜駅に別れを告げる。

「よいお年をお迎えください」と伝えた翌年の未曽有の日常に、言葉を失った彼女を思い出す。

あの日、あの街で、彼女は。


*プロローグ

*マガジン

※基本的には経験上のノンフィクションですが、お客さん情報の身バレを防ぐために一部フィクションにしています。

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