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未亡人日記55●長崎の奇跡

 母は「長崎の鐘」がラジオから流れてきた時代の話をたまにしていた。

 永井博士の話も覚えていた。胸が潰れるような気持ちで聞いたという。そして話の最後には必ず「憧れ、ためらい、ながーさきの、ああー、長崎の鐘がなる」と、いい声で歌った。

 長崎は歌枕であるなあと飛行機の中で私は思っていた。

長崎、と聞くとまずクールファイブの曲が私の中を流れて、その後、頭のてっぺんから、高いところからプッチーニのアリアが落ちてくる。

一緒に長崎の離島の教会を回る旅に行こうと数年前に誘っていたのだがもう母と一緒に旅に出ることはないだろう。母は入院中。病院のベッドの上にいる。倒れてから、意識は今も戻っていない。

だからこそ私は一人で旅に出るんだ。

 初めて降りた長崎空港からシャトルバスに乗ると、道路は雨の気配で、これはクールファイブであるな、と私は思った。ホテルのある中華街のバス停で降りると、轟轟と路面電車が向かってきて、でも人がいると止まって歩行者がスイスイと渡っているので、ヒューマンスケールな町だなと思った。

中華街のエリアにあるホテルに荷物だけ預けて、路面電車の1日チケットを買い、電車で長崎駅まで行くことにする。乗った次の駅は「出島」だ。出島!

 出島って、私のイメージでは湾内に浮かぶ島に小舟を漕いで行って貿易をしている・・・、そんなことはなかった。埋立てられたんだろうな。海辺の街あるある。電車の中から写真を撮る。

 路面電車とお城があって、新幹線の駅があって日本酒が美味しいまちが私は好きなのだ。長崎はお城はないかもしれないけれど。(いや、きっとどこかにある)すでにいい街に来たというワクワクした気持ちになる。

 最近好物になったごくごく細い皿うどんを長崎駅の中の店まで食べに行って、その後、駅からすぐの美容院に行った。最近の私の中の流行は、知らない街で、ホットペッパービューティを使って美容院を予約するのだ。息子ぐらいの若い男の子が担当だった。トリートメントにシャンプー&ブローを頼んで三千九百円だった。なぜか着物の話になり、彼の友達のお母さんがアフリカンバテックの着物屋さんをやっているというので、インスタをフォローした。(結局、予定が立て込んでいていかなかったけど)。旅行すると最近は、着物屋さんもチェックすることにしているのだ。色々セットになって忙しい。あと、古本屋で本を買うというのも義務にしている。これは後ほど「銀河書房」という古本屋で「どくとるマンボウ医局記」と、水上勉編「母」(作品社のワンテーマエッセイ集)を買ったことで達成。

 シャンプー&ブローしてもらったサラサラの髪になって、駅前から歩いて、坂を登って、二十六聖人の殉教地まで行った。舟越保武がこの彫刻を作っていることを知っていたので、私はそれを見に行くつもりであった。芸術的な関心だったのだ。しかし、現地に行って圧倒されて、打ちのめされてしまった。広場の前に、横に長い十字の形に、足をぶらんとさせて二十六聖人はいた。この丘の上での磔刑は、長崎湾を通る船からもよく見えたことであろう。絶望的な気持ちになった。蝶々夫人の「ある晴れた日に」がまた頭の中で鳴る。

 彫刻の裏に資料館があって、五百円出して入った。受付の女性と少し話す。東京から私は来ました、ローマ教皇様が来たときは通りで迎えました、のような。

 日本への布教から弾圧までを扱っている資料館は充実していて、私だけだったので、じっくり見た。天正の少年使節や殉教・弾圧の歴史や。一番驚いたのは、隠れキリシタンのクリスマスの秘儀。紋付を着た丸い頭の年老いた男性が、口の中でお祈りを唱えながら、パンと葡萄酒ではなく、米と水で儀式をするのだ。

 遠藤周作の「女の一生」は、まだ読み終えていないのだけれど、この後大浦天主堂に行って、さらに私が感激したのは、ここで隠れキリシタンの儀式映像を実際見ていたからかもしれない。

 資料館の裏にも教会があって、そこにも行ってみた。受付のお婆さんが親切に色々案内してくれた。教会の中は写真を撮ってもよくて、また、建築家がガウディの専門家だったという話、そして教会の裏の斜面に先立って案内してくれて、「ここが写真には良いです」と言う。その斜面からは教会の2本の塔がよく見えた。小高くなっているので、長崎のまちが見下ろせる。さあっと雨が降ってきた。長崎の街に生まれて、長崎の教会にくる旅人の前を軽々と歩き斜面に案内するお婆さんの人生。そんな人生を自分が送っていたらどんなふうなんだろうと、想像する。私がバルセロナに行ったのは後にも先にも大学生の時だけ、バルセロナオリンピックの前だが、サグラダファミリアには献金したけれど、あの時長崎にこんな教会があることは知らなかったなあ。(バルセロナは80年代当時、私の中で流行っていたんだよね。中沢新一の本や佐野元春の歌や。でも行ってみたらパリやロンドンと比べられない田舎っぽい街でびっくりしたんだった。)

 坂を下り、再び電車に乗ってホテルに戻ってチェックインする。中華街のホテルは場所も良いし、便利だ。今度来てもここに泊まってもいいなあとシングルルームで荷物を広げながら思う。子供の遠征にくっついて日本全国あちこち行くと、ホテルは基本チェーンのビジネスホテル。今日のホテルもまあ、その系ではあるが、若干高級なビジネスホテルなので、部屋にネスプレッソが置いてある。マシンを使って作ってみた。飲みながら、夫が死んでしまった今、私はこの後、男と高級ホテルに泊まることはないんだろうなあ、と寂しい気持ちになった。一人でそんなホテルに泊まっても全然面白くないし、もったいないし。1998年にニューヨークに行ったときにウォルドルフ・アストリアに泊まったのと、1993年にローマでエクセルシオールに泊まったの、あれは高級ホテルだよね。夫が香港の外資系企業にいた時代はマンダリン・オリエンタルが好きで数回泊まった。当時は日本では香港映画ブームで、私も何度か取材に香港に行った。大好きなレスリー・チャンの撮影中にお邪魔してインタビューしたこともあった。レスリーは、その後そこから身を投げたのではなかったか。

 などという回想シーンはあるけれど、日本のビジネスホテルチェ―ンがいかに過不足なくコンパクトで素晴らしいか、今はよくわかるので、不満はない。

 ホテルを出て、今度は海のほうに行こうと思って、電車で大波止までいき、そこで降りて海の方へ歩いて行った。この海辺がよかった。ヨットなど停泊していて、ややデジャブ感覚、と言ったら変だけど、湾の奥に鎮座する稲佐山が故郷の山に見えてくる。風景が見たことある感。五島へ行くのか、船がスピードを上げて出ていく。それを見ながら、

「港付近で、子どもの頃は走り回っていました」と、長崎出身の方が言った言葉を思い出している。私の想像の中で、少女が走っている。

 おしゃれなカフェに入って、カフェのお姉さんと相談しながらシーボルトのラテアートを頼んだ。他に何があるの? と聞いたら、坂本龍馬など5人ぐらいあるのである。帰りには「出島コーヒー」というのをお土産に買った。長崎の人は、みな、距離が自然な感じで人当たりが良い。少しも寒くなく、水辺のカフェはいい感じだった。私の隣の若いビジネスマンが、パソコンを広げた後、いきなり英語で電話をし出したのも、よかった。

 その後、電車に乗って大浦天主堂まで行った。17時までではないかと焦っていたら、18時までだった。でも18時に私はレストランの予約をしていたし、その前に電気屋で充電器を買おうと思っていたので、焦っていることには変わりはなかったのだが。

 白い大浦天主堂は美しかった。遠藤周作はまだ途中であったが、「信徒発見」の場面は飛行機の中で読んですでに泣いていたので、実際に神父の前におばさんたちが現れた「信徒発見」のマリア像の前に佇んで祈った。すごい話である。キリスト教徒はもう絶えてしまったと思っていた神父の側からもすごい話だけれど、隠れキリシタンの側からすれば、なんとうい奇跡だろう。30年かける7世代以上、弾圧に次ぐ弾圧の中でひっそりと続いてきた信仰が、神を呼び寄せたとしか思えない。やはり奇跡はある、ということを体感したのだろうと思うと私はジーンとするのである。

 教会から出て、お土産屋さんが両脇に並ぶ坂を電車に向かって下っていく。修学旅行生もいて、京都の三年坂みたいな雰囲気だけど、海が見えて、今度は私の頭の中に渡辺真知子の「かもめが飛んだ日」が流れる。夕方の光が海に射す。後ろを振り返ると、白い大浦天主堂。なんて綺麗な街なんだろう。悲劇とのコントラストで語るのかような常套句ではなく、純粋に長崎の美しい国際都市ぶりに感動し、坂道を下り電車に乗りながらさっき見た教会の姿を反芻していた。

 イタリアンレストランのカウンターを、18時に予約していた。少し早く着いたので、店の前で、ひっそりと時間が来るまで待っていた。シェフが一人で切り盛りしているというその店の佇まいはイタリアの街角にありそうな感じだった。ブルーの看板がイタリアの海の色なのかなと思った。そういえば30年前の今頃、新婚旅行でイタリアに行った。ということは、今日の私は30年後にイタリアを旅行しているというつもり。回りくどいけどそういうことにする。

 カウンターの隣に後から、台湾、シンガポール、上海から来たと3人連れがきて、(ビジネスカンファレンスで長崎に集合だと言っていた)、台湾の女性は早稲田に留学していたこともあるというので日本語も少し話せて、料理を味わいながら色々な話をした。台湾の映画監督の話とか。料理はアオサのフリットを前菜に、長崎のおいものニョッキのミルク味と、地元の豚のローストポーク、そして泡、白、赤をグラスでもらい、さらにシェフが仲間と制作したという日本酒をいただいた。どの料理も素朴だけど美味しい。素材と火の扱いが素晴らしいと感じた。まだ味を脳内の味蕾で再現できる。

 多少酔っ払った私は「今から私は悲しい話をします!」と、料理をほぼ作り終えたシェフに絡み気味に向かって「今から30年前の秋に新婚旅行でイタリアに行きました。トレビの泉の真ん前のホテルに泊まってて、もう一度、銀婚式で来ようと思いました。そして30年後、夫は死んじゃったのですが、今、私は長崎のイタリアンレストランにいます」と言ったら。シェフは「悲しい話というから、失恋の話かと思った」とやや不思議な受け答えをしてくれて、私は独身と思われたのかな? と思った。(まあ、独身ですけどね)。そしてシェフに「この辺でおすすめのバーを紹介してほしい。デザートは食べないので、マティーニを飲んでホテルに帰りたい」と言ったら、シェフはまだ数人お店に人が残っていたのにお客様たちに一声かけて、私をそのバーまで案内してくれた。

 マティーニハンターの私はマティーニを飲みながらバーのマスターとマティーニ談義をし(2拍目にがつんとくるタイプのマティーニでした)、2杯目はノンアルコールカクテルをお願いした。なぜなら明日は朝イチの「かもめ」と島原鉄道を乗り継いで島原まで行くのである。早いのである。一人旅なので、飲み過ぎで寝過ごすことは許されない。

 マスターも、カウンターの中の女性従業員も島原についてはあまり知らないようであったので、島原鉄道および島原の情報はあまり集まらなかった。代わりに「ショートカクテルをオーダーされると、あ、関東の人だなと思います」という話を興味深く聞く。大阪などからきた女性はロングカクテルが多いそうだ。お勘定をしたら、女性従業員が店から「送ります」と付いて来る。階段を下り、コージーな路地を抜け、大通りまで送ってくれた。嬉しい。

そこから、ライトアップされた眼鏡橋まで歩いて行った。

長崎の夜。

橋の写真を撮って、電車通りまで戻って、電車に乗って私はホテルへ戻った。

 

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