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信じる何かをもっている、ということ

子どもたちが驚いたのも無理はない。大人のわたしだって初めてそれを目にしたとき、視線が釘付けになった。

ホストファミリーをしていた頃、ムスリム(イスラム教徒)の留学生を何度か受け入れたことがある。彼らは1日5回、決まった時間にメッカの方角を向き、お祈りをする。彼らにとっては幼い頃からの習慣で、母国では、家族も友人も近所の人も会社の人も、みんなお祈りをする。

そのお祈りの様子を見た子どもたちは「うちらはお祈りしなくてもいいん?」とわたしに聞いた。

特定の宗教をもたず、初詣に行ったり、お墓参りをしたり、ハロウィンやクリスマスにはパーティーをしたり。節操のない我が家。あっちの宗教、こっちの宗教とフラフラしているように見えるこのやり方は、特定の宗教をもつ留学生たちにとっては信じられない光景だったんだろう。

「いったい、何を信じているんですか?」

真顔でそう聞かれ、答えることすらできなかった。

信じるものをもたずに生きるってどういうこと?

留学生はそんな疑問を抱いたらしい。彼らにとっての軸心のようなものをもたない生き方は、ひどく頼りないものに見えたのかもしれない。

ムスリムの留学生の習慣は、日本に来てもブレなかった。豚由来のものやアルコールは決して口にしなかったし(食品成分表を毎回細かくチェックしていた)、ラマダン期間中は、どんなに暑くても、日没を過ぎるまでは水一滴さえも口にしない。

一緒に出かけた炎天下の日。「熱中症になっちゃうよ。お水飲んだら?」と声をかけたが「いまは飲めない。ラマダンだから。夜になったらお水を飲みます」と、ヒジャブを被った彼女は控えめに微笑んで答えた。

また、カトリック教徒の留学生は日曜の朝には欠かさずミサに行っていたし、奉仕活動にもよく参加していた。なにか悩みがあれば聖書を読むし、神父さんに話を聞いてもらう、とも言っていた。

そんな彼らの真摯な姿を見ながら、信じる何かをもっているって強いな、生きていくうえでのブレない軸なんだろうなと感じていた。

家族で旅行したウズベキスタンは「信じる何かをもつ」人だらけだった。

首都タシケントには大きなモスクがあちこちにあった。お祈りの時間になると、平日の昼間でも、ビジネスマンたちが仕事を抜けて車や自転車などでモスクに押し寄せる。1000人以上集まるモスクもあり、その混雑のサマは傍から見ていても圧巻。

モスク周辺の道路には「これ、出るときにどうするの?」という状態で車が幾重もの列をなして停められ、モスクの入り口は、これまで見たこともないくらいたくさんの靴やサンダルであふれかえっていた。これじゃあ、他の人の靴と区別つかないよねぇという有りさま。

モスクを見上げながら「信じる何かをもつ」人のパワーってすごいな、と彼らをうらやましくすら感じた。


タシケントにある Teleshayakh Mosque


また、サマルカンドやブハラにはメドレセ(イスラム教の神学校)が建ち並び、多くの若者がそこで寝泊まりしながら勉強をしていた。生活は神とともにあり、神の存在をいつも近くに感じられる、そんな環境に見えた。


サマルカンドにある Tilla Kari Madrasa


ここで紹介した「信じる何か」は宗教関連のエピソードだけど、自分の心のよりどころになるのであれば、その「信じる何か」は宗教でなくてもいいのでは?

なにか苦しいことがあったとき、胸に暗い闇を抱えているとき、弱音を吐きたいとき。誰にも相談できないときや、自分とじっくり向き合いたいときだってある。そんなときこそ宗教が支えになるのかもしれないが、宗教でなくても、無条件に「信じる何か」があれば、救われるケースもあるのでは?

その「信じる何か」を周りの人にうまく説明できなくてもいい。人に分かってもらえなくてもいいし、人に強要するものでもない。信じるのは自分だもの。「信じる何か」は、自分が信じていればそれでいい。

どんなときでも心のド真ん中にある「信じる何か」。それがあるのとないのとでは、心もちが大きく違うんだと思う。

人生は時に無慈悲で、辛いことが思いも寄らないタイミングで降ってくる。意気揚々と歩いていくはずだった道で、転んだり、倒れたりする。そんなときでも「信じる何か」があれば、それにすがるようにして立ち上がろうかな、もう1回やれるかな、少しでもいいから進んでみようかな、と思える。

わたしにとっての「信じる何か」は、ゴスペル。

クリスチャンではないけれど、ゴスペルを歌いはじめてから12年ほど経つ。こんなにも長いあいだ歌っているのは、心の平静を保つのにゴスペルが必要だからだ。ゴスペルを歌っているときにだけ開く心の扉があって、その心の扉から、ゴスペルの歌詞や音色が、わたしの奥底に癒しやパワーを届けてくれる。

一昨年から昨年まで子どもがひきこもりになり、本人だけでなく、家族も長期間かなりのダメージを受けた。苦しいときだからこそわたしはゴスペルに助けを求めたし、ゴスペルはそれに応えてくれた。ゴスペルが救いになった。「信じる何か」をもっているって強さになるんだな、そう思った。

いまも変わらず特定の宗教はもたないけれど、それでもゴスペルのチカラを信じている。

最後に「信じる何か」をもつ人のパワーを紹介したい。この曲を歌っているのはChicago Mass Choir。 歌っているときのメンバーの表情がたまらない。信じる相手に心をゆだねている様子がよく分かる。大好きな1曲。

信じる何かをもっているって強い。
そして、とても美しい。










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