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ココロを喜ばせるスイッチ

自分のココロを喜ばせることって大切だ。ココロに癒しや栄養を与えるためのモノ。

みんなのココロはどんなときに満たされるんだろう。

ココロを喜ばせるスイッチは、人それぞれだと思う。

自然の中で、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込むとき。ココロの思いを言葉にして綴っているとき。スポーツで集中力を高めているとき。誰かを想いながら何かを手作りしているとき。

私のココロが満たされるのは、ゴスペルを歌っているときだ。仏教徒なのにゴスペル中毒。

「ゴスペルと聞いて思い浮かべるのはどの曲?」と質問をしたら、多くの人は次の3曲のうちのどれかを答えるだろう。

奴隷貿易への悔恨を綴った “Amazing Grace”
映画『天使にラブソングを2』の“Oh Happy Day”、”Joyful Joyful”

ゴスペルの起源は黒人霊歌。奴隷貿易でアメリカ大陸に連れてこられた、アフリカ系アメリカ人の音楽。

奴隷制度、それはアフリカ系アメリカ人が背負わされた過酷な制度だ。近代史上最も不当な生を強いられ、今もなお差別され続けているアフリカ系アメリカ人。彼らにとって現実は絶望と苦悩の連続だ。

それなのに、彼らの音楽ゴスペルは、どこまでも前向きでどこまでもあたたかい。強いメッセージ性と優しい言霊に満ちあふれている。

学生時代に黒人文学を勉強していたので、ブラックミュージックにはもともと興味があった。

映画『天使にラブソングを』で、前向きであたたかいパワーをもらえるゴスペルに励まされた私は、いつか必ずゴスペルを歌うと決めた。

7年前、ゴスペルクワイアに入った。それ以来ゴスペルは、私のライフワークの1つ。私のように、クリスチャンではないがゴスペルに魅了されている日本人は、想像よりもはるかに多い。

その証拠に、教会所属のゴスぺルクワイア以外に、スクールやサークルが全国各地に存在する。ゴスペルイベントが年間を通してあちらこちらで開催されている。

ゴスペルは多くの人々を魅了し続けている。それはなぜなのか?

想いに寄り添ってくれる音楽。それがゴスペルだ。自分自身を深く見つめる機会を与えてくれる。

ゴスペルを歌うと、普段はココロの奥底に潜んでいる“素の自分”があらわれる。深海でフツフツと小さく泡をふき、日常では決して海面にはあらわれない“素の自分”。

ゴスペルを歌いながら、自分の身をおおっている鎧や肩書がポロポロとはがれ落ちるのを感じる。深海に潜んでいた“素の自分”が、海面にあらわれる瞬間だ。あらわれた“素の自分”。その内なる声に耳を傾ける。

過去に負った傷、負わせてしまった傷、わだかまりが残ったままの関係性。自分の弱さ、後悔の念、こんなことをしてしまった、あんなことをしてしまった、のモヤモヤのかたまり。“素の自分”が抱えている思いに耳をかたむけ、昇華させる。

見たくないものに蓋をするのではなく、見たくないものを確かめて受け止める。知らないふりをするのではなく、事実として受け入れて考える。どうしたらいいのか。自分はどうしたいのか。

アフリカ系アメリカ人の過酷な生活と比べたら、私の悩みなんて本当にちっぽけだ。それでもゴスペルは、こんなちっぽけな私にもあたたかい。

どんなに悲惨な環境にいようとも、前向きに生きていこうとする彼らの力強さとあたたかさに、勇気をもらう。ゴスペルを通じて。すべてを受け入れる彼らの姿勢に、自分もそうありたいと願う。

ゴスペルを歌っていると、言語化しづらい想いがココロの奥から次々とあふれ出す。体感した人だけが分かる感覚なのかもしれない。

ココロの奥底に潜んでいる“素の自分”と向き合い、ココロを解放するのだ。

しがらみや、ぐるぐる渦巻いている感情や、込み入ってほどけそうにないムズカシイ色んなこと。それらを受け入れて昇華させる。

受け入れること。受け止めること。

ゴスペルを何度も歌っていると、あれが足りないこれが足りない、と思わなくなる。

今あるモノで満たされるようになる。今あるモノに感謝するようになる。

自分のココロが喜び満たされると、その満たされた感情が自分という器からあふれ出ていく。たっぷり水分を吸ったスポンジから滴り落ちる水のように。

その滴り落ちた水は、周囲の人へと流れていく。自分が満たされると、周囲の人を満たすことができるのだ。

ココロを喜ばせるスイッチは、人それぞれだと思う。スイッチの1つの選択肢として、ゴスペルを考えてみるのもいいかもしれない。

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