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守れなかった約束

あれは、わたしが初めて冬のボーナスをもらったとき。母と2人で1泊旅行をした。

「お姉ちゃんが家を出てから、お母さんの口数が減ったよ」

留守電に入った弟からのメッセージ。

そのころのわたしは、1人暮らしを満喫し、実家への電話は月に1度、帰省は数か月に1度くらい。メッセージが気になり母に電話をする。

「お母さん、2人で旅行しよう。冬のボーナス出るから。行きたいところある?」

「連れて行ってくれるの?そうだな、あったかいところに行きたいね、花を見に」

母のこの言葉で行先が決まった。関東で春の訪れが1番早い、南房総だ。

ハンドルを握るわたしの横で景色を眺め、しきりに「きれいだ」を連発する母。もぎたてのレモンのような菜の花畑が、一面に広がっていた。

3か月ぶりに会う母は饒舌。花を摘みながら、今まで聞いたこともないたくさんの話をしてくれた。母親になる前の、ただの1人の女性だったころの話。親ではない母の一面を知り、不思議な、それでいて親密な気持ちになった。

少し高台にある、見晴らしのいい旅館に到着。この旅館では、自分の好きな色の浴衣を選べるらしい。お母さんはいつもどおり紺だろうなと思っていたのに、

「なんだかとても楽しいから、この黄色にするわね」

と、わたしが選ぼうとしていた浴衣を手にとった。さっき花畑で摘んだスターチスみたいな、淡い黄色の浴衣。

露天風呂に浸かり、“お母さんと一緒にお風呂に入るなんて何年ぶりだろう”と考えたら、ひどく親不孝な娘のような気がして、あわてて母の背中を流した。

夕飯のメインは旬のブリ。母の好きなトロトロのブリ大根は、甘からい汁をまとい、つややかに光っている。ブリしゃぶの鍋からは、ゆらりゆらりと湯気がたちのぼり、消えていく。

「娘と飲むお酒って美味しいね」

普段はほとんど飲まない母だが、房総の名物びわワインを片手に上機嫌。乾杯をし、お互いの初恋話をした。

よく食べ、よく話し、よく笑った。

お腹も、頭も、心も満たされた1日。

布団を並べて2人で横になる。同じ部屋に2人で寝るのも久しぶりだなぁと思っていると、

「久しぶりね、あなたと一緒に寝るのも」

母も同じことを思っていたらしい。

灯りを消したあとも天井を見たまま、おしゃべりは続いた。この天井の模様、わたしはずっと忘れない。そう思った。

次の日は自然と目が覚めた。起き上がり、となりの母を見るとまだ眠っている。母の寝顔も久しぶりだなと思い、しげしげと見つめた。

ふぅー。小さなため息。

目じりの深い皺、生え際の白髪、骨ばった手。いつのまにこんなに年取っちゃったんだろ。

見たくないものを見ちゃった、気づかないふりをしていたかったのに、気づいちゃった。

やるせない気持ちと、そろそろちゃんと受け止めろよ、という小さな覚悟のようなものがせめぎあう。社会人とは名ばかりの自分の器の小ささに情けなくなり、視線を上に移す。

そこには、昨日の夜とおんなじ天井の模様があった。

母のリクエストで、野島崎灯台の展望台から海を眺める。冷たい風が吹くなか、2人で大きく深呼吸をし「新鮮な空気に浄化されたね」と笑いあった。

「お母さん、また誘うから。今度はもう少し長めに行こう。どこ行きたい?」

帰りの車でそう聞くと、母は行きたい場所をいくつもいくつも言った。

「オッケー、了解。じゃあまた行こう。約束ね、お母さん」

みやげ袋をさげた母を駅で見送る。

「楽しかった、ありがとうね。体に気をつけて仕事がんばりなさいよ」

「うん、わたしも楽しかった。お母さんも元気で。また行こうね、約束だよ」

次の旅行のために、せっせとお金を貯めた。でも、2回目の旅は実現しなかった。

母は病気で旅立ってしまったのだ。

お母さん。

あのときお母さんが行きたいって言ってた場所、必ず行くから。わたしの子どもたちと行くから。お母さんは会ったことないけど、あなたの孫たちだよ。

お母さんが見れなかった景色、見てくるから。
あなたの孫たちと、ちゃんと見てくるから。

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