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【沖縄戦:1944年8月22日】「ガンバレ、救助手配スル」─対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃をうけ沈没する

対馬丸の沈没

 那覇港を21日に出港し、長崎に向けて航行中の陸軍徴用貨物船「対馬丸」(日本郵船、6754トン)がこの日夜10時過ぎ、トカラ列島の悪石島から北西約11キロの海上で米潜水艦「ボーフィン」による魚雷攻撃をうけ沈没した。
 対馬丸には疎開のため乗船していた沖縄各地の国民学校の学童ら1788人が乗っていたが、この米軍の攻撃により1482人が犠牲になった。そのうち学童の犠牲は784人であった。
 ただし、これら乗船者数や犠牲者の数は現在判明している数字であり、確定したものではない。当時、十分な事故調査、被害調査がおこなわれず、対馬丸の乗船者数や犠牲者などについて正確にはわからないところが多い。

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対馬丸の沈没地点:毎日新聞2018年8月16日

 対馬丸は44年8月19日、同じく徴用貨物船「和浦丸」(6804トン)および軍輸送船「暁空丸」(6854トン)とともに第32軍の主力兵団である第62師団の各部隊を乗せて上海から那覇に入港した。そして21日18時過ぎ、対馬丸はじめ三隻は駆逐艦「蓮」および砲艦「宇治」の護衛のもと、疎開学童や一般疎開者を乗せ那覇港を出港した。航行中は軍用機も上空で哨戒にあたったといわれる。
 しかし、このころ南西諸島沖には米潜水艦が出没し、民間船舶や軍艦を問わず無制限の潜水艦・航空戦を展開していた。米軍は当初、魚雷の欠陥により思うような成果をあげられなかったが、暗号の解読や数隻の潜水艦が連携し船団を攻撃する「群狼戦法」(群狼作戦、ウルフパック)といわれる戦法の導入などにより、徐々に日本の船舶へ大きな被害を強いた。軍や当局は、このように南西諸島がすでに危険となっていることを知りながら、住民たちにはそれを知らせず、疎開を実施したことはしっかりと確認しておきたい。
 米軍の対日潜水艦戦などについては、44年8月5日の「宮古丸」沈没に関する以下の記事を参照していただきたい。

 対馬丸を沈めた米潜水艦「ボーフィン」(艦長:ジョン・コーバス)は、すでに44年7月半ばから南西諸島沖の哨戒活動を開始していた。さらに米軍は対馬丸などの船団が16日に上海を出港する旨の暗号を傍受し、19日に那覇に入港することも全て把握していた。なお米軍は対馬丸をアグン丸と呼んでいたようだ。
 21日18時過ぎに那覇を出港したアグン丸こと対馬丸船団は、ジグと呼ばれる蛇行航行で米軍の追尾や魚雷攻撃を警戒しながら航行していたが、22日午前4時10分にボーフィンが対馬丸船団を発見した。ボーフィンはこの際、「レーダーに目標三隻を探知」と哨戒日誌に記していることから、米軍が事前に把握していた対馬丸などの船団に関する情報を通報され、那覇を出港した船団の存在なども把握した上で、これを探って発見したものと思われる。
 そしてこれ以降18時間におよぶ追跡とそのなかで攻撃計画が立案された末、ボーフィンから22時12分ごろ発射された5発の魚雷のうち一発が対馬丸に命中し、10分もかからぬうちに沈没したという(二発命中、あるいは三発命中という記録もある)。米軍の日誌にはボーフィンは和浦丸や暁空丸も攻撃し、護衛艦の宇治や蓮までも沈没させたと記録されているが、実際には被害は対馬丸だけであった。
 攻撃をうけた対馬丸や護衛艦はただちに海軍佐世保基地に宛てて遭難の旨を告げる緊急信号を発したが、この信号も米軍は傍受していた。この信号傍受により、米軍は沈めた船が対馬丸一隻であるという被害状況などを把握したという。
 あらゆる面において南西諸島海域は米軍の制海権下にあり、日本側の情報は筒抜けであったということができる。

漂着した生存者と徹底した情報統制

 対馬丸の沈没により船とともに多くの人が海底に沈んでいったが、船から投げ出されたり海に飛び込むなどして海上に脱出した人も多くいた。「アンマー(お母さん)」「ニイニー(お兄さん)」「センセーイ」と叫ぶ子どもの声や、家族を探し求める声、学童の安否を確かめる教員の声、救助を求める声などが暗闇の海に響いたという。
 生存者は板切れなど浮かぶ物にしがみつき、助けを求めて漂流した。救命いかだにも多くの人がしがみつき、奪い合いもあったという。偶然、大村基地所属の軍用機が23日正午、現場海域上空を飛行し、生存者や遺体、大小の木片や船の残骸、物資、いかだなどが長さ15キロから20キロも連なっているのを発見した。海流のためそのような長さに生存者らが連なり流されていたのであろうが、その姿はまるで巨大なヘビが海を泳いでいるようだったという。軍用機は日本船舶が米軍に攻撃されたとすぐに悟り、「ガンバレ、救助手配スル」との通信筒を投下したという。軍用機は高度を上昇させ大きく旋回し、付近に海軍特殊漁船「開洋丸」を発見すると、これを現場海域まで誘導、救助にあたらせた。
 また事件から28日早朝には、奄美大島に生存者や遺体が次々に漂着しはじめたという。なかには遺体が山となっているボートが海岸に打ち上げられたこともあったという。住民は漂着した浜に遺体を埋葬し、生存者に水をわけるなどしたという。生存者は沈没と長時間におよぶ漂流のため体中が傷だらでボロボロであったそうだ。
 一方で軍は生存者や遺体が漂着した村々に急行し、「口外してはならない」と情報を統制した。そして生存者を軍用車に乗せてどこかに連れ去ったそうだ。おそらく軍病院など軍の施設に収容し、隔離したものと思われる。しかし事件後、ほどなくして対馬丸が沈没したらしいという噂が沖縄にも流れ、対馬丸に学童を乗せた家族などはあちこちで対馬丸が沈んだらしい、子どもの行方を知らないかなどと尋ね歩き、憲兵に捕らえられることもあったようだ。その他、生存者は沈没について触れず「元気です」とだけ書いた手紙を出したり、澄子という学童の無事について「スイス製の時計は無事です」などと暗号のようなかたちで状況を伝えたこともあったという。
 またノートや鉛筆など学用品、あるいは衣類など、対馬丸に乗船した学童らの荷物の一部は、対馬丸に載せられず、他の船舶に載せられて九州に輸送されたといわれる。そのため対馬丸の事件後、対馬丸の学童のものと思われる学用品などが九州の学校に送られることになり、他の疎開学童がありがたく使用したそうだ。
 当時、既に疎開学童を引率し九州に到着していた国民学校の先生は、対馬丸事件後に対馬丸の学童のものと思われる学用品などが届いたため、「借りておきなさい」といって子どもたちに配布したという。物が不足していた状況にあって、やむをえず遭難した学童の荷物を使うことになるが、それでも「借りておきなさい」といって配布したところに、遭難した学童への礼節を感じ取れる。

対馬丸事件についての証言

 対馬丸事件については当時学童であった生存者などの証言が多数残っている。生存者も高齢化し、証言を直接聞き取ることが難しくなるなか、ぜひとも残された証言に触れて欲しい。以下、NHK戦争証言アーカイブスよりいくつかの証言のリンクを記す。

[証言記録 市民たちの戦争]海に沈んだ学友たち~沖縄 対馬丸~:NHK戦争証言アーカイブス

対馬丸遭難者の新崎美津子さんの証言:NHK戦争証言アーカイブス

対馬丸遭難者の高良政勝さんの証言:NHK戦争証言アーカイブス

参考文献等

対馬丸記念館ホームページ
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第2号(琉球新報2004年8月22日)
・保坂廣志「平和研究ノート 戦時遭難船舶(沖縄関係)と米潜水艦攻撃」(『琉球大学法文学部紀要 地域・社会科学系篇』第1号、1995年)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)
・三上謙一郎『沖縄学童集団疎開 宮崎県の学事記録を中心に』(みやざき文庫)

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ありし日の対馬丸(日本郵船歴史博物館所蔵):山岸良二「撃沈から72年『対馬丸の悲劇』を深く知るQ&A 『子どもら1500人が死亡』史実に何を学ぶか」(東洋経済オンライン2016年8月22日)より