【沖縄戦:1945年4月6日】津堅島に米軍偵察隊上陸 特攻機約300機での航空総攻撃─米艦船にたどりつくこともできない特攻の現実
津堅島に米軍の偵察大隊が上陸
勝連半島の南東に位置する津堅島には、重砲兵第7連隊第1中隊など第32軍の部隊と防衛隊あわせて数百人が配備され、速射砲や野砲などの兵器があった(これについては諸説ある)。
中城湾に米艦艇が侵入し、勝連半島や津堅島に艦砲射撃をおこなった5日、艦隊付属海兵隊(FMF)偵察大隊に津堅島への上陸命令が発せられ、同隊の2個中隊がこの日2時頃、勝連半島からゴムボートで津堅島に上陸した。日本軍部隊は米軍偵察部隊に銃撃や迫撃砲による砲撃をおこない交戦となったが、米軍偵察部隊は3時ごろには撤退した。
同隊は偵察結果をレポートしたが、日本軍部隊が野砲を秘匿し砲撃しなかったこともあり、兵力を少なく見積もって報告した。これが米軍の10日11日の本格上陸の際の苦戦につながったといわれている。
また住民は、津堅島に日本軍が配備され、陣地があることから米軍は上陸をおこなったのであり、浜比嘉、平安座、平敷屋、久高など日本軍の陣地がない島には米軍は攻撃しなかったと証言している。確かに日本軍さえいなければ島の住民が戦闘に巻き込まれることはなかった。「軍が住民を守る」という言葉について、私たちは慎重に向き合うべきだろう。
主陣地帯前縁での激闘
第32軍は、牧港ー嘉数ー西原ー我如古ー和宇慶のラインを第1線陣地とし、主力部隊を配備し堅牢な主陣地帯を構築していたが、この主陣地帯の前縁には85高地や161.8高地などを主陣地とした前進陣地が構築され、部隊が配備されていた。
米軍は、4日ごろより前進陣地に進出し、戦車部隊などで前進陣地守備部隊に猛烈な攻撃を開始していたが、この日、守備部隊は壊滅的な打撃をうけた。
現在の普天間飛行場付近の森川公園周辺にあたる85高地は、独立歩兵第13大隊第3大隊を基幹とする部隊が守備していたが、米軍の猛攻により全滅に近い状態となり、陣地を突破された。
現在の沖縄県中城村の県立消防学校の裏手に位置する161.8高地は、独立歩兵第14大隊の第1中隊(谷川中隊長、第2小隊欠)、機関銃中隊の1個小隊、5号無線機(94式5号無線機か)を有す無線1個分隊の総員約150名が配置され、敵情偵知や前進遅滞、賀谷支隊の支援に従事していた。
同高地は、昨日も米軍の攻撃をうけ撃退したが、この日早朝から再び米軍の攻撃をうけた。米軍は、まず砲迫撃を全陣地に集中させ、その後に歩兵部隊が前進してきた。部隊は砲迫撃中は地下陣地に退避し、砲迫撃がやむと陣地配備について前進する米兵を射撃するとともに手榴弾や爆薬を投じて撃退した。
谷川中隊長は、左前方の分隊を(第1小隊の1個分隊か)を中隊本部付近の壕に後退させた。新垣西方地区では、米軍戦車数両が出現し部隊陣地を射撃してきたが、部隊にはこれに対抗する対戦車火器はなかった。また大隊本部との有線電話は、戦闘開始とともに断線不通となり、分隊の5号無線機も不通となった。
161.8高地の戦闘には後方から大隊砲一門が協力し、陣地左側方面を射撃し支援した。谷川中隊長は通信断絶のため、大隊本部に砲兵の支援を要求する伝令を派遣したが、途中で死傷し目的を達せなかった。米軍の攻撃は猛烈をきわめ、第3小隊長も負傷し中隊本部に後退してきた。
中隊は、米軍の突撃を7~8回撃退させたが、午後3時ごろには陣地は馬乗り攻撃をうけるようになり、中隊本部も谷川中隊長以下約30名が地下壕に閉じ込められ、苦戦した。
夜になり米軍の攻撃が止んだため谷川中隊長以下壕外に出て各陣地を偵察したが生存者はほとんどおらず、やむなく142高地に後退した。
沖縄北部の状況
沖縄北部の国頭支隊宇土支隊長は5日、米軍の一部が仲泊、石川の線まで進出したのを知り各所に歩哨を配置し警戒を厳重にしていたところ、この日夜、名護南西6キロ幸喜に米軍が上陸を開始し、戦車15両が名護南南西5キロの許田に進出したとの報を受け、村上治夫隊長ひきいる第1護郷隊(第3遊撃隊)に戦車攻撃を命じるとともに、各隊に対戦車戦闘の強化を命じた。
なお村上隊長はこの日、名護付近での米軍の戦車上陸を拠点のタニヨ岳から観測しており、そこに加えた国頭支隊長からの戦車攻撃の命令をうけ、遊撃戦展開の状況に入る。
国頭支隊佐藤第2大隊長はこの日夕、次の命令を下達した。
また米軍の名護方面進攻が明白になったため、運天港に所在する海軍の第27魚雷艇隊白石司令はこの日夜、「当隊今ヨリ陸上戦闘移行、国頭支隊長ノ指揮下ニ入ル」と佐世保鎮守府司令長官、沖縄方面根拠地隊司令官、第32軍司令官に打電した。同夜、沖縄方面根拠地隊司令官は第27魚雷艇隊白石司令に次のように打電した。
運天港には、第27魚雷艇隊だけでなく第2蛟龍隊も配備されており、白石司令の電にはそうした第2蛟龍隊との合同についてもうかがえる。
第1次航空総攻撃
陸海軍の航空部隊はこの日、航空総攻撃を開始した。航空総攻撃はその後何次かにわたっておこなわれたため、この日の航空総攻撃を第1次航空総攻撃という。また海軍側では菊水1号作戦と称された。
陸海軍航空部隊の航空特攻は、基本的に連日実施されていたが、この日未明から夜間にかけて、第5航空艦隊、第6航空軍、第8飛行師団と陸海軍あわせて約300機が出撃し、24機が突入に成功した。米軍は空母や駆逐艦に沈没を含む損害をうけたといわれている。
ただし既に多くの隊員が技量未熟の状態であり、特攻も夜間飛行が難しいため、15時ごろに出撃し17時ごろの薄暮時に攻撃を行うことが多かったといわれる。機体も老朽機があてがわれ、整備も不十分であった。爆薬が増量されているため機体重量が増しており、燃料消費が激しく、途中で不時着する機体も多数あった。
こうした悪条件のもとで沖縄洋上まで辿り着けたとしても、米軍はレーダーピケット艦による高性能レーダーを用い、相当な遠距離から早期警戒網を構築しており、レーダー上に発見された特攻機はただちに空母から発進した米軍機によって撃墜され、米艦隊に近づくことすらできなかった。航空特攻とは、まず何よりも米軍の高性能レーダーピケットへの突入なのであった。
その上でレーダーピケットを奇跡ともいえる確率でくぐりぬけ米艦隊に接近したとしても、そこには空を覆うような猛烈な対空砲火が待ち受けており、特攻機は粉々に打ち砕かれていった。
さらに航空特攻には、物理的な本質的問題があった。爆弾を抱えた特攻機が敵艦船に向かって急降下し体当たりするのが航空特攻であるが、じつはこうした攻撃だと急降下の際に特攻機に揚力が生じてしまい、機自体がエアブレーキとなり、爆弾の破壊力や貫通力がかなり低減されてしまうのである。
こうした事実は、特攻隊員たちもすでに把握しており、特攻隊員たちの一部では、まず爆弾を投下して攻撃したのち、敵艦船に向かって急降下して体当たりをおこなった。爆弾を投下し損害を与えたのだから帰還してもよいはずだったが、すでに「特攻」そのものが目的となっていたのである。
第32軍、8日夜の総攻撃計画を策定
第32軍はこの日、8日夜を期して決行する総攻撃についての計画を策定した。また、軍司令官は、奄美諸島徳之島の独立混成第64旅団に航空基地の整備強化を命令した。
連合艦隊はこの日の航空総攻撃(菊水1号作戦)の戦果が多大であると見込まれ、戦艦大和以下海上特攻部隊も8日朝に沖縄に突入する予定であることから、この日夜、第32軍に対し総攻撃を8日朝に決行することを要請したが、第32軍はこれを拒否した。
棚原付近の独立重砲兵第100大隊第2中隊(1小隊欠で15糎カノン砲1門)はこの日夜、航空総攻撃に呼応するように北、中飛行場方面へ制圧射撃を開始した。ただし12日、米軍の迫撃砲により中隊のカノン砲1門が破壊され、16日には残り1門も破壊された。
沖縄南部に配備されていた第24師団はこの日朝、歩兵第22連隊や同89連隊、野砲兵第42連隊を北方の前線へ転進するため準備を命じた。
戦艦大和の出撃
沖縄方面海上特攻出撃を下令された戦艦大和など海上特攻部隊は、昨日来より燃料や弾薬の補充、不要物件の陸揚げなど出撃準備をおこなっていたが、この日も引き続き出撃準備がおこなわれた。特にこの日は艦務実習中の海軍兵学校各科少尉候補生の退艦がおこなわれた。彼らは4月2日に大和などに乗船したばかりであったが、大和艦長の有賀幸作大佐(後に中将)の意向で退艦となった。
連合艦隊豊田司令長官はこの日、次の通り訓示した。
15時過ぎ、戦艦大和以下海上特攻部隊は、山口県の徳山錨地を出撃し、日付がかわるころには大隅海峡へ進入した。
大和以下海上特攻部隊指揮官である伊藤整一第2艦隊司令長官は出撃後、次のように訓示を発した。
宇垣長官の日記より
第5航空艦隊宇垣司令長官のこの日の日記には、次のように記されている。
新聞報道より
この日の沖縄新報には、次のような沖縄県の諭告が掲載された。「日本軍の勝利を固く信じろ」というあたりは常套句であるともいえるが、県みずから「スパイ」「デマ」を煽っているところに注目したい。
上陸から日をおかずして浜でコーヒーとドーナツを出す赤十字のテントを見て驚く兵士たち 1945年4月6日撮影:沖縄県公文書館【写真番号04-89-2】
参考文献等
・武島良成「1945年4月・沖縄県津堅島の戦い」(『京都教育大学紀要 』第131号)
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄方面海軍作戦』
・同『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・吉田裕『日本軍兵士─アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)
・同『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史⑥(岩波新書)
トップ画像
小川清、安則盛三が操縦する特攻機が激突した直後の米空母バンカー・ヒル この特攻により同艦は沈没こそ免れたが400人近い戦死者を出した:沖縄県公文書館【写真番号80GK-5274】