見出し画像

【沖縄戦:1945年4月19日】米軍南進再開、牧港-伊祖ラインを突破し第一防衛線の一角を崩す 米軍の火炎放射器と日本軍の急造爆雷

米軍、牧港-伊祖ラインを突破

 13日以来、首里司令部攻略のため南進する米軍は、次期攻勢に向けて態勢の立て直しに入り、この間主陣地帯(第一防衛線)の戦況が停滞していたことは繰り返し述べてきた通りであるが、米軍はついに18日夜からこの日未明にかけて行動を開始した。
 牧港-伊祖ラインは第62師団(藤岡武雄師団長)の歩兵第63旅団(中島徳太郎旅団長)と歩兵第64旅団(有川圭一旅団長、下掲図の64B)の戦闘地境となっていたが、米軍はこうした境界の弱点をつくように18日夜、牧港付近から伊祖付近に進入し、この日未明守備隊の陣地を攻撃した。
 この方面を守備する歩兵第64旅団の独立歩兵第21大隊(西林鴻介大隊長、下掲図の21Ibs)は、米軍進入正面の第1中隊(下掲図の1co)にその撃退を命令した。

画像1

4月18日から19日の第一防衛線の戦況:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

 また藤岡師団長は有川旅団長に米軍の撃退を命じたが、有川旅団長は西林大隊長から独力をもって撃退する旨を報告されたため、特別な処置をしなかった。しかし西林大隊第1中隊の逆襲は失敗に終わり、この日朝には48・9高地、伊祖集落北側高地が米軍に占領され、城間北方地区にも米軍が進入してきた。この方面の米軍は逐次増強され、混戦状態となった。
 藤岡師団長は再び有川旅団長に陣地奪回を命じ、有川旅団長は西林大隊長にこれを命じた。西林大隊長は隷下の第3、第4、第5中隊を繰り出し近接戦闘を展開して陣地奪回をはかったが、中隊長、小隊長クラスを含む多大な死傷者を出して作戦は失敗に終わり、西林大隊は戦力を半分以下に激減させた。
 また伊祖南東側高地の独立臼砲第1連隊も米軍の包囲攻撃をうけたが、善戦して米軍の進出を阻止し、同連隊第4中隊の成谷真男少尉率いる小隊は伊祖北側高地の一角を確保した。
 八原高級参謀は戦後、このころの牧港-伊祖ラインの戦況を次のように回想している。

 真栄田、牧港、伊祖付近の戦闘
 この正面を攻撃する敵は、中央に第九十六師団、左翼に第二十七師団を指向した。
 原大佐の指揮する精鋭独歩第十三大隊、途中これに代わった独歩第二十三大隊、ならびにこれに協力する独立臼砲第一連隊および軽迫撃砲大隊等の奮戦により、敵は嘉数および七五高地正面を突破する能わず、四月十七、八日ごろより、わが左翼牧港方面に侵入を始め、わが虚に乗じ、四八高地を奪取、さらに勢いに乗じ、東南進して伊祖城趾に突入して来た。前田、仲間付近わが守備隊の左側背を脅威せんとするものである。
 従来この方面は、地域狭小であり、地形も堅固と信ぜられており、しかも敵の攻撃もあまり積極的でなかったので、軍としては比較的安心していあ。敵は、よし嘉数正面を力攻奪取しても、直ぐ次には地形険阻な前田、仲間の高地にぶっつかるので、賢明な策ではない。
 南上原高地帯を攻略し、のちわが右翼方面より前田、仲間高地を席捲するのが攻撃の常則であるが、敵の滲透戦法よりすれば、業が大きく、多くの時間を要する。これに反し、今現に敵が取りつつある牧港、伊祖を経て直路端的に、仲間の左側背に進出せんとする攻撃法は、手法は細かいが確かに妙案である。
  [略]
 大体伊祖より牧港を経て那覇に至る正面は、歩兵第六十四旅団の防御地区であって、当初陣地配備の重点は、陸正面よりもむしろ西海岸方面より敵が上陸する場合を顧慮して、決定されていた。ところが敵が嘉手納に上陸して以来、陸正面の戦闘は主として右翼歩兵第六十三旅団が担任しており、有川少将の第六十四旅団はいつまでも海正面に気を奪われ、配備を陸正面に転換することにやや手抜かりがあった。特に伊祖、牧港正面の守備に任じた平林中佐の独歩第二十一大隊においてその感が深い。
 かかるちょっとした虚隙が、敵の滲透戦法の餌食となってしまったのだ。
  [略]
 とにかく滲透戦法に対する防者の心得は、その水溜りが深く広くならぬ前に、速かにこれを排除することであった。
 独歩第二十一大隊長平林中佐は、責任を感じたか、十九日夜大隊主力をもって、牧港から伊祖への攻撃進路を制する四八高地に対し、回復攻撃を試みたが、損害のみ多く失敗に終わった。かかるうちに敵の滲透は伊祖からさらに安波茶および、その西南地区にじわじわと拡大する。
 南上原高地も、前田、仲間も今なお堅持しある際、はしなくも牧港正面から生じた戦線の破綻に対し、上下挙って憤慨した。つい皆の口が荒くなり、有川将軍や平林中佐に対する個人攻撃にまで発展する。第六十二師団長の藤岡中将の憤激は、実は軍首脳部以上である。面目にかけても伊祖四八高地の線を奪回しなければならぬ羽目となった。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

画像8

牧港攻略を補助した第27師団第106歩兵部隊E中隊の陸軍パトロール犬 45年4月19日撮影:沖縄県公文書館【写真番号04-87-3】

嘉数高地の戦闘

 嘉数高地の守備はこれまで独立歩兵第13大隊(原宗辰大隊長)が担っていたが、同大隊はこれまでの戦闘で戦力が極度に低下していたため、藤岡師団長は独立歩兵第23大隊(山本重一大隊長)との交代を準備した。
 米軍はこの日早朝より嘉数高地の主陣地に対して猛烈な砲撃をくわえ、7時30分ごろより主陣地正面に前進を開始した。8時20分ころ、米軍が嘉数高地北側谷地に進入すると、守備隊は臼砲、迫撃砲、機関銃の集中火によりその前進を阻止した。
 また8時30分ごろより3~4両ずつの米戦車群計約30両が嘉数と西原の中間道を南下してきた。地雷により2、3両が擱坐したが、戦車群は縦隊となり南下をつづけた。これに対しては速射砲、連隊砲、高射砲などの射撃と歩兵による肉迫攻撃がおこなわれ、数両の戦車が擱坐した。残りの戦車群は西に進み嘉数集落に進入したが、これに対しても攻撃がおこなわれ、約20両が擱坐した。
 さらに米軍歩兵の一部を嘉数集落北側に誘い込み包囲攻撃するなど、計画的な戦闘により米軍に多大な損害を与え、夕刻までに米軍を撃退したが、守備隊の損害も大きかった。
 米軍は前進する戦車の後ろに歩兵がついてくる戦術をとっていたが、この日の第32軍の戦闘は、「歩戦分離」といって戦車を攻撃し擱坐や後退させ、歩兵を孤立させるといった独特の戦法をとった。これが功を奏し、この日の嘉数の戦闘では大きな戦果をあげたといわれる。
 この日の戦闘で活躍した独立速射砲第22大隊第3中隊第2小隊長武田藤雄少尉は、当時の対戦車戦闘の状況を戦後次のように回想している。

 私は四十七粍速射砲一門を指揮して西原南側で嘉数部落方向を射撃するように陣地を占領していた。
 四月十九日朝宜野湾街道を米軍戦車が列をなして南下して来た。わが速射砲は真横から射撃する時機を待ち、真横を先頭群の六両が通り過ぎたところを六両目から逐次先頭戦車に射撃を指向した。射距離は三〇〇~四〇〇米であったため初弾から命中し、ほとんど一発ずつで米軍戦車五両を次ぎ次ぎに擱坐させたが一両は射撃しながら後退して行った。擱坐した戦車の中には、砲塔を旋回しながらめくら滅法に射撃したのもあった。
 後続戦車は嘉数部落方向に進んだ。これに対しわが野砲弾[略]が命中するのが見えたが、私の速射砲は射撃しなかった。
 また、勇敢な肉薄攻撃も見えて「歩兵さんなかなかやるなあ」と感心した。
 私は多数の戦車が擱坐炎上するのを見たが、二二両もやっつけたとは知らなかった。私の小隊員は近くの擱坐戦車から武器その他を持ってきた。戦車をそのまま使用することは考えなかった。

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 この日夜、師団命令により嘉数地区以西は歩兵第64旅団長の担任となり、独立歩兵第13大隊長は嘉数地区の防衛を独立歩兵第23大隊長に移譲し、独立歩兵第13大隊および独立歩兵第273大隊は前田地区に撤退した。

画像2

米軍の歩兵と戦車とを分離して攻撃するための射撃、砲撃計画 この図だけではなぜこれにより歩戦分離が実現されるのかよくわからないが、日本軍の火力の方向が大きく二股に分かれているところに何か戦術的なポイントがあるのかもしれない:上掲「戦史叢書」

その他の戦況

 西原-我如古-142高地-南上原にわたる主陣地帯は、独立歩兵第12大隊賀谷大隊長の指揮する同大隊と独立歩兵第14大隊を基幹とする部隊が守備していたが、米軍はこの日朝6時ごろから守備隊陣地に猛砲撃をおこない、6時30分ごろから全戦線で攻勢をしかけた。
 西原高地では西側および北側から米軍の猛攻をうけ、同地付近の独立歩兵第14大隊や独立機関銃第14大隊など所在部隊が応戦したが、米軍は逐次西原高地頂上付近に進出してきた。独立歩兵第14大隊長は予備隊の同大隊第1中隊を増強するなどし、夕方までには米軍を撃退して西原高地を確保した。
 独立歩兵第14大隊第2中隊の一部が守備する我如古南東側高地(米軍は墓石高地と称した)の陣地も猛攻をうけ、後方および側方からの火力支援をえて抵抗を続けたが、高地西側斜面は米軍に占領された。
 独立歩兵第12大隊および同第14大隊が混合守備する142高地の陣地においても7時ころから攻撃をうけたが、守備隊は米軍が接近したところに迫撃砲や機関銃での急襲射撃をくわえ撃退した。
 東海岸の和宇慶方面では、6時ころから米軍の猛砲撃が開始され、6時30分ころから米軍戦車隊や歩兵隊が押し寄せてきた。米軍戦車5両が和宇慶南西稜線(米軍はスカイラインと称した)の守備隊陣地に突進し、歩兵部隊もこれに続いた。同方面の独立歩兵第11大隊は米軍の猛攻により多大の損害を生じたが、奮戦して夕方までには米軍を撃退し、和宇慶南西の稜線および伊集西側高地の陣地を確保した。同大隊の損害は多大であり、同大隊第5中隊は全滅に近い死傷者を生じた。
 第32軍はこの日の戦況を次のように報じている

一 軍主力方面ノ敵ハ四月十二日以降攻撃準備中ナリシカ本朝来砲兵、迫撃砲集中射撃掩護ノ下戦車数十両ヲ伴フ尠クモ二箇連隊ヲ以テ第六十二師団正面ニ全面的攻撃ヲ開始セリ
  第一線部隊ハ志気愈々旺盛軍砲兵協力ノ下随所ニ歩戦ヲ分離シ敵戦車ニ対スル肉迫攻撃戦ヲ展開中、陣内ニ擱坐炎上シアル戦車四、五〇両ヲ算シ他ニ相当ノ戦果ヲ収メツツ夕刻依然現陣地(和宇慶ー我如古ー宇地泊)ヲ確保シ敵ヲ第一線以北ニ撃退セリ
二 来襲敵機ノ活動活溌ナラス 砲撃二万八千発
三 〇六〇〇湊川南方一五粁戦艦二~三 巡洋艦一 駆逐艦五 輸送船三〇現出 湊川、糸数附近ニ対シ熾烈ナル艦砲射撃ヲ開始ス 上陸ノ算大ナリ
四 嘉手納、中城湾方面ハ昨日ニ比シ若干艦船減少セルカ如キモ大ナル変化ナシ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

画像7

後方の日本軍を砲撃している、シェパード少将率いる第6海兵師団の105ミリ砲兵大隊 45年4月19日撮影:沖縄県公文書館【写真番号84-12-2】

沖縄北部の戦況

 沖縄北部では国頭支隊がタニヨ岳方面へ撤退を続けていたが、この日朝国頭支隊配属の独立重砲兵第100大隊の平山勝敏大尉一行がタニヨ岳に到着した。第3遊撃隊(第1護郷隊)村上隊長は平山大尉に宇土支隊長の到着まで支隊長代理として撤退してくる兵員を整理してもらうことを依頼した。
 また、この日航空特攻の芙蓉隊所属であったが、飛行機が故障したため特攻できず山中に入り、国頭支隊本部に到着していた寺山鉄造大尉や支隊本部の山本緑中尉一行もタニヨ岳に到着した。
 国頭支隊の指揮下に入り戦闘中であった鶴田傳大尉以下海軍蛟龍隊もこの日タニヨ岳に到着した他、翌20日には白石信治大尉以下特殊潜航艇も到着した。白石隊はこの日道に迷って東海岸の大浦付近に出て、二見付近で米軍と交戦した上で20日に到着したといわれる。
 村上隊長は宇土支隊長の安否を心配し、第1中隊に支隊長捜索を命じた。
 第一次恩納岳の戦闘を展開中の第4遊撃隊(第2護郷隊)だったが、三角山の大鹿隊正面は、眼鏡山に沿う地区から戦車や迫撃砲に支援された有力な米軍の攻撃をうけた。激戦は夜までつづき、何とかこれを撃退したが、損害が大きかった。

画像6

砲兵隊指揮所に侵入を試みて射殺された日本兵 45年4月19日撮影:沖縄県公文書館【写真番号73-29-4】

伊江島の戦況

 伊江島では早朝から米軍の砲撃が開始された。特に城山南側の学校高地や女山地区に猛砲撃がくわえられ、9時ごろより攻撃前進してきた。
 城山の戦闘指揮所にも砲弾が集中し、壕の入口の岩石が崩れ無線機が破壊され、伊江島守備隊と第32軍司令部との連絡が途絶した。
 井川守備隊長は守備隊の「玉砕」にあたり電文を用意していたが、それを伝える手段もなくなってしまったため、児玉俊介衛生見習士官に対し、部隊の最後の総攻撃後、本部半島に渡り国頭支隊長に戦闘経過を報告するよう命令した。児玉氏は無事に生還し、戦後、伊江島守備隊の記録を残している。
 学校高地をめぐる戦闘はすさまじく、同地を守備する第3中隊および第1機関銃中隊は激しい抵抗をつづけたが、死傷者が続出し弾薬も尽きたため、ついに学校高地には米軍戦車隊が進出するようになった。それでも同高地の守備隊は残存陣地を固守したといわれる。また女山付近の第1中隊高野小隊も敢闘したが、13時30分ころには同地は占領された。
 井川守備隊長は学校高地の重要性を考え逆襲を企図した。戦闘指揮所で作戦主任の業務にあたっていた独立速射砲第7大隊第1中隊藷江大尉は、みずから部隊を率いて学校高地北側に進出し、まず女山の米軍を撃退し、次いで学校高地の米軍を撃退して奪回に成功した。
 井川守備隊長は大隊予備の第2中隊第2小隊や大隊本部の本部要員、田村大隊などを学校高地に増援し、反撃する米軍を撃退して学校高地の維持につとめた。この戦闘で中隊長、小隊長クラスの戦死が相次ぎ、藷江大尉も負傷した。
 城山東側の第1中隊陣地は東方から西進してきた戦車約10両の攻撃をうけたが、陣地を確保した。
 このように力戦奮闘をつづけた伊江島守備隊だが、もはや城山陣地は米軍に完全に包囲され、守備隊の戦闘は終焉を迎えようとしていた。

画像5

米軍の伊江島作戦の経過要図:上掲「戦史叢書」

米軍によるナパーム弾と火炎放射器の戦線投入

 米軍は、このころよりナパーム弾などを使用した火炎攻撃を開始した他、火炎放射器を戦線に投入した。火炎放射器は歩兵が装備している場合もあれば、戦車や装甲車に設置されている場合もあり、日本軍の壕や陣地あるいは木々や集落を焼き払い、避難している兵士や民間人をいぶり出し、また殺傷していった。
 ナパーム弾、火炎放射について、米軍戦史には次のように記されている。

 四月十九日、朝霧がぬぐうように消え、美しい沖縄の島が影のようにくっきりと浮かび上がった。と同時に、沖縄作戦最大の空襲が行われた。
 午前九時までに与那原を襲った米軍機は六十七機で、まき散らすようにナパーム弾を投下し、地上のありとあらゆるものを焼きつくした。[略]この日は合計六百五十機の海軍機や海兵隊の飛行機が日本軍陣地めがけてはげしい空爆を行い、ロケット弾やナパーム弾を投下し、機銃掃射を浴びせかけた。
  [略]
 中型戦車二輌と火炎放射器を装備した装甲車三輌が第七師団の鮮烈を離れ、東海岸の平地をころがるように南のほうへ走り、やがて和宇慶を通過、陵線地帯の先端に止まって、すばやく陣取った。そこからは、丘のふもとにある墓地にたてこもった日本軍やその陣地が見える。この陣地めがけて戦車砲と装甲車の火炎放射器がいっせいに火を吹いた。
 長いオレンジ色の炎が尾をひいて、陣地前面にあたったかと思うと、真っ黒い煙が渦をなして空高く舞いあがった。一面めらめらと燃え、渇ききったきび畑や墓のなかでこの火炎放射をまともにうけた日本兵は、まったくあっと驚きの声をあげるまもなく死んでいった。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

画像3

火炎放射器を使用し壕を攻撃する米兵 45年撮影:沖縄県公文書館【写真番号02-27-1】

戦車砲からね、火を送ってやるのがさ。あれ3時間ずつやるから、入っていた人はみんな死ぬよ。火炎放射器で。火炎放射器というのは、戦車からガソリン燃やして、火を入れるから。中は全部焼けてしまう。1回やられたよ。横穴がなければ、焼き殺されるよ。横穴に入っても、地べたにはっていないと熱いんだ。恐ろしいよ。あれ火を送るのに、こんな大きい戦車砲から、いっぱい火が壕に行くの。大砲みたいな音立ててな。火を送るから、缶詰缶なんかも置いておくと、無くなる。形もなくなる、溶けて。

(比嘉政雄さん:NHK戦争証言アーカイブス)

歩兵第32連隊として沖縄戦に参加した比嘉政雄さんによる火炎放射器のおそろしさについての証言 チャプター4(14分15秒頃より):NHK戦争証言アーカイブス

急造爆雷による対戦車自爆攻撃

 あたかもこうした米軍の新戦法に対抗するかのように、第32軍は急造爆雷を背負った米軍戦車への自爆攻撃を繰り返した。この日の嘉数での戦闘では、米軍戦車22両が擱坐、炎上したといわれるが、それなども初年兵らによる急造爆雷を用いた自爆攻撃による戦果といわれている。こうした日本軍の自爆攻撃について、米軍戦史は次のように記している。

 爆薬箱をもった日本軍
 米軍戦車隊は、空中写真でかすかに写っていた嘉数への道を求めて南へ急いだ。だが、この道はみつからず、ここでもまた戦車一輌が、日本軍の対戦車砲にやられた。そこでまた進路をかえて別の踏みならされた小路をさらに南進したが、ここでも道をまちがえ、嘉数の東方、比較的に平坦な場所で、丘陵地帯の前面にぶつかってしまった。
 ここからは村落に着くことはできないので、戦車は引きかえし、主要道路まで出て、そこで正しい道を発見し、午前十時すぎ、どうにか嘉数まで到着することができた。村落を取り巻き、ときには中に進撃して火炎放射器で火を放ち、日本軍陣地を破壊した。こうして嘉数は、三時間で完全に撃滅され、燃えつくされた。
 だが、米軍の被害も大きかった。とくに村落に入るときが激戦で、村落周辺、あるいはその中に入ってからでさえ、戦車十四輌がやられた。その多くは敷設地雷や四十七ミリ対戦車砲にやられたものだが、なかには、重砲や野砲で擱座させられたのもあり、また日本軍が爆薬箱を持って接近攻撃法をこころみ、爆薬もろとも戦車に体当たりし、自爆をとげるという特攻にやられて撃破された戦車も多かった。
 米軍の被害はますます大きくなった。とくに爆薬箱をもった日本軍は、戦車にとっては大脅威だった。
 爆薬箱は、ふつうボール箱の中に火薬をつめ、それを至近距離から戦車の無限軌道めがけて投げつけるものである。だが、日本人はしばしばこれを腕にかかえてそのまま戦車にぶつかる戦法をとったのだ。嘉数ー西原戦線でも十キロ爆弾をかかえた“自爆攻撃兵”によって、日中に六輌が撃破された。

(上掲『日米最後の戦闘』)

 日本側の証言にも次のようにある。

兵隊たちは五〇センチ四方位の箱に火薬を詰めて、それを背負って行くのであった。アメリカ軍が上陸してきそうな所に穴を掘り、火薬を担いで穴の中に一人ずつ潜んでいた。迷彩服を着ていたが大部分が防衛隊の人であった。私は彼らが戦車に突っ込むのを何度も見た。穴に隠れ、戦車が来るとそれに突っ込み、下敷きになるのである。そうすると背中の火薬が爆発する仕組みになっていた。私はその時まで戦争というものは話に聞いていただけであった。ところが、そういう光景を実際に目の前にすると、あまりの凄惨さにショックを受けた。

(『宜野湾市史』第3巻 資料編2 市民の戦争体験記録〔『沖縄県史』各論編6 沖縄戦〕より)

 また、この日遅く海軍沖縄方面根拠地隊から発せられ、翌20日受信された海軍電報には、次のようにある。

  四 二〇 機密第一九二三一三番電
宛 GF参謀長
手榴弾及急造爆雷作製ノ為雷管五万個以上可成多数小禄部落南東方盆地[略]ニ投下方配慮ヲ得度
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 小禄の海軍部隊が手榴弾と急造爆雷の製造のための雷管の投下を要求するものであるが、急造爆雷が重要な兵器として必要とされていたことがわかる。
 第32軍八原高級参謀も戦後、次のように回想している。

 海空に、原始的ではあるが、必至の攻撃が展開しているとき、陸上においてはこれに数十倍する大規模をもって、必死の勇士らが急造爆雷を抱いて、敵戦車群に突入していた。対戦車砲や、地上任務を仰せつかった高射砲も相当数あったが、敵戦車の二、三も破壊し得たとときにはこちらもやられてしまう場合が多かった。効果威大な軍砲兵隊の十五サンチ榴弾砲も、弾薬使用を制限されているので、全戦線に、絶えず協力することは不可能である。したがって第一線将兵の主として頼むところは、自ら携行する対戦車急造爆雷である。
 戦車肉攻は、彼の空中特攻の如くには、内地の新聞やラジオで華々しく宣伝されなかったようだが、なんらそれに劣るものではなかった。血と涙の三か月間の持久戦は、彼ら急造爆雷を抱えた必死無名の勇士によって、遂行されたのである。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 八原高級参謀の回想にもあるように、米軍戦車に対する急造爆雷を抱えた自爆攻撃は「肉攻」ともいわれ、対戦車戦として非常に有効であるとして、本土において戦訓として記録された。
 事実、第32軍は沖縄戦の地上戦のさなか、軍中央に「第三二軍沖縄戦訓集」を報告しており、さらに「南西諸島作戦」「沖縄作戦の教訓」などとして戦訓がまとめられていったが、そこには対戦車戦の戦訓として

  其ノ四 対戦車戦闘
一、対策周到ナレバ戦車恐ルルニ足ラズ
 1、爆薬肉攻ノ威力ハ大ナリ
 2、潜伏肉攻
  地形ヲ利用シ特ニ夜間ノ通過点(概ネ一定シ来ル)附近ニ遊動的ニ適時隠蔽行動セシムルヲ可トス

(「沖縄作戦の教訓」:『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

などと対戦車戦の自爆攻撃の戦訓を記している。この戦訓が活かされる戦場は、いうまでもなく来たるべき本土決戦である。万一本土決戦となれば、これをもとに各地で沖縄戦以上の自爆攻撃が繰り返されたことであろう。

画像5

急造爆雷を抱えたまま戦死した兵士 少年兵と思われる:沖縄県平和祈念資料館

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・米陸軍省『沖縄 日米最後の戦闘』(光人社NF文庫)

トップ画像

日本軍の壕を攻撃する米軍の火炎戦車と、飛び出してくる日本兵を待ち受ける米兵:大田昌秀『写真記録 総史沖縄戦』(岩波書店)