【沖縄戦:1945年7月2日】米軍、沖縄作戦の終了を宣言 沖縄戦と捕虜─収容所での報復のリンチや米軍による尋問、調査について
23日以降の掃討戦
米軍はこの日、第32軍が壊滅した23日以降すすめてきた掃討戦を終え、沖縄作戦の終了を宣言した。翌3日、ムーレー米海兵隊大佐が軍政府副長官に就任した。
第32軍壊滅後、日米の最後の激戦がおこなわれた沖縄南部の真栄里や真栄平では一部の日本軍部隊の抵抗や攻撃がつづき、特に夜間の挺身斬込みがおこなわれた。こうした状況下、米軍はこの日まで掃討戦を展開し、日本軍の戦死者が150人~200人におよぶ日もあった。
また沖縄北部や本部半島などでも戦闘が散発的につづくとともに、日本軍の残存部隊の多くが沖縄北部を目指して北上し、米軍の警戒網にかかり多数の戦死者が出ていた。
一方、洞窟陣地などを拠点とし、長期に残存した部隊もあった。例えば歩兵第32連隊(北郷格郎連隊長)は沖縄南部の国吉・真栄里を拠点に洞窟陣地で抵抗をつづけ、6月18日からは米軍の馬乗り攻撃をうけたが、これを耐え抜いた。そして23日以降は米軍の攻撃が緩慢となり、7月には伊東孝一大隊長ひきいる同連隊第1大隊との連絡を確保するなどした。
北郷連隊長は沖縄北部への転進を決意していたが、7月末に翻意し現陣地の確保を命令した。そして8月18日、米軍機から日本の無条件降伏を知らせる伝単に接し、米軍側との交渉などを経て、8月29日に軍旗奉焼式をおこない連隊長以下武装解除した。
その他、同じく歩兵第32連隊の志村常雄大隊長ひきいる第2大隊は、4月28日以降前田高地に進出し、米軍と死闘を展開したが、5月9日に撤退命令をうけた。しかし撤退の機を逸し、これ以降も前田高地の洞窟陣地に籠った。志村大隊は米軍の爆薬攻撃や火炎攻撃を耐え抜き、5月末には残存者100名程度で前田高地から南上原に転進した。その間、各隊の将兵を指揮下とし、7月中旬には200名程度の部隊規模となり、北部へ転進を開始したところ、米軍に急襲され部隊は四散した。志村大隊長は再び南上原の陣地へ戻り、部隊の再編成に務めていたところ、9月4日、第1大隊の伊東大隊長の呼びかけで投降した。
捕虜収容所と調査、尋問
「生命を助けるビラ」の配布や投降呼びかけなど米軍の心理戦展開により、6月23日以前から日本兵の米軍への投降は急増していたが、掃討戦においても多数の日本兵が投降したといわれる。
米軍に投降、捕縛された捕虜は、仮の収容施設で民間人か軍人か分別され、軍人である場合は屋嘉や楚辺の捕虜収容所に収容された屋嘉収容所は捕虜収容所の本部であり、多くの将兵が収容された。捕虜同士のトラブルを避けるため(捕虜同士のトラブルは米兵が仲裁するのではなく捕虜同士の役目とされていた)、また後の送還も意識して、捕虜は本土出身者、朝鮮半島出身者、沖縄出身者に分けられ、さらにそのグループのなかで将校と兵士にわけられて収容された。各グループには長がいたが、特徴的なのはそれぞれのグループ全部を統括したのは朝鮮半島出身者であった。基本的には米軍は朝鮮半島出身者を戦勝国民として扱い、次に沖縄出身者、その次に本土出身者と待遇に差をつけた。
なお捕虜収容所では朝鮮半島出身者や末端の兵士たちが、それまで自分たちを卑しめてきた日本軍将校を呼び出し、毎晩のようにリンチを加えていたといわれる。また久米島や慶良間諸島で住民虐殺をおこなったり強制集団死を引き起こした将校が怨みをかってリンチされたこともあったようだ。久米島で住民虐殺をおこなった海軍兵曹長の鹿山正や沖縄北部の戦闘を指揮した国頭支隊長の宇土武彦などもリンチをうけたといわれる。
どのような理由があろうとそうしたリンチ、暴力は肯定できないが、戦場で捕虜として収容されるという極限状態のなかで、これまで横柄に振る舞い、さらには虐殺に手を染めた上官たちに対し、末端の兵士たちによる実力での報復が発生することそのものは、一つの事象として理解はできる。
また捕虜収容所では、米軍が軍人たちを調査、尋問し、有益な軍事情報を聞き出そうとした。どの捕虜も最初は調査、尋問に抵抗し、尊大な態度をとったり、回答を拒否したり、嘘の情報を答えるなどした。それは捕虜自身が自分が捕虜となったことを恥と考えたり、故郷の家族に危害が及ぶと推測するなど様々な理由があった。しかし米軍による食糧や医療の十分な提供をうけたり、少しずつ情勢を理解しはじめると、捕虜たちは貴重な軍事情報を提供したという。
また米軍は軍事情報に限らず、自由記述式のアンケートをおこない、軍人たちの心理状態や戦争の推移、天皇についてどう考えるかなど、様々な調査をおこなったといわれる。
米軍基地建設すすむ
米軍は沖縄上陸後、ただちに各地の日本軍飛行場を接収し、拡張するとともに、新たに飛行場を建設するなど基地建設をすすめた。この日の沖縄作戦の終了宣言により、米軍による本土上陸はいよいよ現実的なものとなり、沖縄での基地建設はさらに重要な意義を持つものとなった。
沖縄での米軍基地建設は太平洋方面軍兼太平洋艦隊司令部から出された「基地展開計画」に基づくものだが、同計画は時期によって何度か改定されており、このころには22もの飛行場が計画され、建設もすすめられていた。また飛行場以外にも道路工事や橋の架橋工事、あるいは石油貯蔵施設などの工事もおこなわれていた。
急ピッチですすむ工事の建設資材には、大量のサンゴと砂、石灰岩、さらには破壊された村のガレキや首里城の石などが「現地の資源」として利用されたといわれる。
こうした建設工事に動員されたのは、米軍に保護、収容された住民たちである。米軍はこのころには20万人以上の住民を保護、収容しており、そのうち6月は延べ7万6千人もの住民を建設工事に動員した。
一方で米軍は基地建設のため住民の北部移動もすすめており、最終的に沖縄住民は沖縄島の総面積のわずか10%程度の土地に押し込められるかたちとなった。押し込められた土地は住むのに適した土地ではなく、住みよい土地や肥沃な土地は米軍に接収され、飛行場や米軍施設が建設されていった。現在まで続く沖縄基地問題の原初がここに生まれていった。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第12号(琉球新報2005年7月3日)
・保坂廣志『沖縄戦将兵のこころ 生身の捕虜調査』(紫峰出版)
・保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言─針穴から戦場を穿つ─』上、下(紫峰出版)
・川平成雄「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(『琉球大学経済研究』第75号、2008年)
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多数の捕虜を連行した第6海兵師団とその収容所:沖縄県公文書館【写真番号写真番号13-06-4】