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【沖縄戦:1945年3月3日】沖大東島と沖縄戦 絶海の孤島の「慰安所」と朝鮮出身の「慰安婦」たち

大東島守備隊第4中隊「陣中日誌」

 沖縄戦時、第32軍が配備されたのは沖縄島(いわゆる沖縄本島)だけではない。沖縄周辺の各離島はもちろん、奄美諸島や宮古・八重山諸島、そして北大東島・南大東島・沖大東島(ラサ島)の3島からなる大東諸島にも部隊が配備された
 このうち大東諸島には1944年3月、大東島支隊(第85兵站警備隊)が配備されたが、大本営が大東諸島の防衛を重視したこともあり、7月には歩兵第36連隊が大東諸島に配備され、大東島支隊を指揮下に編入し、大東島守備隊とも称した。なお大東島守備隊は宮古島の第28師団の指揮下に置かれた。これをもって3島の人口約5800人を越える約7700人もの兵隊が大東諸島に駐屯した。
 なかでも沖大東島に駐屯した部隊は、歩兵第36連隊第4中隊(森田芳雄中隊長)であった。現在の沖大東島は米軍の射爆撃場であり無人島であるが、戦前は沖大東島の燐鉱山を採掘するラサ工業の社員や家族など、一定数の人たちが住んでいた。
 沖縄戦中、沖大東島は連日のように米軍の空襲や艦砲射撃にさらされていたが、最後まで米軍の上陸はなく、同中隊が島に駐屯しつづけた。

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陣地構築状況要図:歩兵第36連隊第4中隊陣中日誌

 ところで軍の中隊以上の部隊は、毎日の部隊の位置・命令・業務内容・人員などを記す「陣中日誌」の作成が義務づけられていた。もちろん沖縄に駐屯していた第32軍の各部隊もそれぞれ「陣中日誌」を作成していたが、大半の「陣中日誌」は地上戦で焼失したり、情報秘匿のためわざと滅失されるなどして、現存していない。しかし、沖大東島には米軍が上陸しての地上戦もなく、陣中日誌の処分について森田中隊長へ特別の指示もなかったため、同中隊の「陣中日誌」が完全なかたちで残っており、軍の命令や日々の動向、島の情勢などを把握するための大事な史料となっている。
 1945年3月3日の同中隊「陣中日誌」を見ると、前日前々日と沖大東島で続いた米軍の空襲や艦砲射撃の被害状況などが記されている他、この日は被害地の整理・復旧や陣地構築作業に従事したという業務日報、あるいは空襲や艦砲射撃に耐えるため各種設備を地下化する必要があるなどの戦訓が記されている。
 また

陣中日誌
 大東島支隊第四中隊
三月三日 曇雨 沖大東島
  [略]
九、守備隊情報電第二〇〇号
  [略]
二、諸報告速報ノ能率向上ノ為貴隊優秀兵二ー三名逐次暗号教育ヲ速カニ実施シ自隊ニ於テ使用セヨ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

との大東島守備隊からの情報電が記されている。「暗号教育」という文言に、沖大東島という小さな島が置かれた緊迫した状況を伺うことができる。

絶海の孤島の朝鮮出身の「慰安婦」たち

 那覇から400キロメートル、南大東島からも150キロメートル離れた沖大東島は、まさしく絶海の孤島である。そうした島でも軍隊が駐屯するとなると「慰安所」が用意され、女性たちが「慰安婦」としてはたらかされたわけだが、同中隊「陣中日誌」にもそうした「慰安所」「慰安婦」について記されている。

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那覇から400キロメートル離れた絶海の孤島沖大東島:Googleマップより

 例えば1944年11月の同中隊「陣中日誌」には「慰安婦」の女性数名が島を訪れたとある。

陣中日誌
 大東島支隊第四中隊
昭和十九年十一月二十三日 晴 沖大東島
  [略]
配属セラレタル二号無線分隊井垣伍長以下一二名慰安婦経営者以下八名上陸
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 また同年12月には「慰安婦」とされた女性の素性について守備隊から調査報告が求められ、中隊が回答している。なお、この守備隊と中隊とのやりとりから、「慰安婦」とされた女性たちが朝鮮半島出身の女性であり、19歳の未成年者が複数名含まれていたことが確認できる。彼女たちの芸名として「しのぶ」「小春」「若葉」「信子」といった芸名(源氏名)も確認できる。
 その他、沖大東島の「第五洞窟」といわれる場所に「慰安所」があったことや「慰安婦」とされた女性は救急法なども教育されていた様子などが見てとれる。
 大東諸島では北大東島や南大東島にも「慰安所」が設けられ、朝鮮出身の女性および沖縄の女性が「慰安婦」とされた。南大東島では、「慰安婦」とされた女性がトウガラシを摘んでいる姿を見かけたという住民の証言があるが、あるいは「慰安婦」とされた朝鮮出身の女性が故郷の料理をつくるためにトウガラシを摘んでいた姿だったのかもしれない。

硫黄島の戦い

 米軍はこの日から翌4日にかけて約3個師団で標流木、北集落、東山および玉名山の守備隊複郭陣地に攻撃をおこない、北飛行場を占領し、一部は天山および庚申塚付近に進出したが、5日には一時攻撃前進を中止し、全線で部隊を交代するなど新たな攻撃準備に入った。
 このころの守備隊のすでに各級指揮官の3分の2が戦死、火砲や戦車の大部分が失われ、戦力が急速に低下していた。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・森田芳雄『ラサ島守備隊記』(光人社NF文庫)
・ホンユンシン『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』(インパクト出版会)
・内閣府沖縄戦関係資料閲覧室 証言集 大東諸島
・戦史叢書『中部太平洋陸軍作戦』〈2〉

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歩兵第36連隊第4中隊の陣中日誌の表紙:JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110342700「大東支隊第4中隊陣中日誌」1944年7月