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【沖縄戦:1945年2月7日】米軍、沖縄来攻の算あり 戦時行政に移行する沖縄県 「結婚は中止せよ」─女子挺身隊の動員

連合艦隊の通報

 第32軍は昨年末よりこの年このころまで、第9師団の抽出にともなう配備変更に忙殺されていた。
 例えば中頭地区、伊江島を含む本部半島、再び中頭地区と配備変更を繰り返してきた独立混成第15連隊は、このころ現在の南城市に配備され、陣地を構築していたが、同連隊のこのころの陣中日誌には、「昼夜ニ亘リ自動貨車ニヨリ山砲及弾薬ヲ輸送」、「自動貨車一ヲ以テ渡久地残置ノセメント及弾薬ヲ輸送ス」、「各隊夜ヲ徹シ戦闘配置ニ就キ尚昼夜兼行陣地構築」などとあり、まさに日々配備変更、陣地構築に忙殺されていた様子が看取される。
 そうしたなかでこの日、連合艦隊による以下の通報に接し、いよいよ米軍の沖縄来攻は必至であると緊張した。

 機密第〇六一四〇七番電 連合艦隊参謀長発
 通信諜報ニ依レバ敵ハ二月初頭以来「マリアナ」「マーシャル」方面ニ於ケル新作戦準備中ノ算アリ ソノ指向方向時機ハ未ダ判明シ得ザルモ左ノ三者ノ何レカナルモノノ如シ
一 二月下旬小笠原群島方面来攻
二 二月中旬以後機動部隊ニ依ル我本土方面空襲
三 三月以後大規模ナル攻略作戦(南西諸島方面ノ算アリ)

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 翌8日には「〇二四九那覇西南三五〇粁附近ニ有力ナル敵艦艇ラシキモノアリ」との情報ももたらされたが、第32軍司令官はこうした緊迫した情勢をうけ、戦力増強のため後方部隊を歩兵部隊に改編したり、兵器の増加配当をおこなうなど、配備変更に加えて戦備強化に努め始める。また防衛召集による住民の戦力化も始まっていく。これらの軍の動きについては、あらためて触れたい。

沖縄県、戦時行政へ移行

 こうした状況下、第32軍参謀長は沖縄県庁を訪れ、島田知事に緊迫する戦局を説明し、住民の食糧6ヵ月分の確保と昨年12月に概定計画された「南西諸島警備要領」に基づき、老幼婦女子の北部への緊急疎開の早急な実施を要請した。
 島田知事はこれをうけて部課長会議を開催し、食糧確保や疎開などの緊急対策を実行に移した。また10日には那覇市内の県立二中の焼け残った校舎で緊急市町村会議が開かれ、北部疎開が話し合われた。さらに県は11日、北部疎開を実施する人口課を設置するなどした。このころより県は戦時行政に完全に移行したということができる。このあたりの動向についても、またあらためて取り上げる。

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島田知事と島田知事の着任を報じる沖縄新報の記事:QAB NEWS Headline 2010.2.1

女子挺身隊の動員

 この日の沖縄新報には、次のような記事が掲載された。

出陣の日近し
 意気込む女子挺身隊
 滅敵の戦場へ征く日を待ち遠しく思ひ乍らも燃え熾る闘魂を戦力増産作業に打ちこんで幾月か待機してゐた乙女たちにも出陣の日はもう真近かに迫つた。県では去る10.10空襲以来中止してゐた女子挺身隊も来月頃から結成送出することになつてゐるが他府県の造兵乙女らは月400時間も平気で働き通してゐるといふ戦野に立てぬ乙女の銃とる姿に憧れの胸をときめかし早くも戦友を誘ひ合ふ乙女たち出陣の春はもう真近かだ。

(『那覇市史』資料篇第2巻中の2)
逸る乙女達
 結成順に送出
 待望の女子挺身隊送出の朗報に出陣を逸して地駄太ふんで[ママ]口惜しがつてゐた乙女たちにも歓声が湧きかへつた。だがその壮途の夢は決して甘いものではない。いま征かなければ決戦に間に合はないと飛行機増産へ断乎奉公の決意は頑として固く滅敵の闘魂は乙女心をひたむきに燃え熾らせ早くも出陣を競ひ合つてゐる。だが出陣にも順序がある。県動員課では既に結成を完了し去る10.10空襲に阻まれて出発見合せとなつてゐた挺身隊を優先的に出発させさらに逐次結成順により送出することになつてゐる。

(同上)

 戦争の拡大により多くの男性が出征するなか、生産に必要な労働力を確保するため、「産業戦士」として女性が動員されていった。
 政府は41年(昭和16)、「国民勤労報国協力令」を公布し、14歳以上25歳未満の独身女性の勤労奉仕を法制化するとともに、43年には「女子勤労動員の促進に関する件」を発表し、14歳以上の未婚女子を男性の就業が禁じられた女性用職種の補充にあたらせたり、航空機関係工場や官公庁などに動員していった。また「女子勤労挺身隊」を自主的に組織させ、1年から2年にわたり生産現場へ動員した。
 沖縄では「女青報国隊」と銘打ち、女性たちが那覇市の工場で働くなどしていたが、希望する女性は県外の飛行機工場などに送られた。また女子挺身隊も次々に結成され、44年2月には72人の女性が第一次女子勤労挺身隊として本土に送られるなどした。以降、数次にわたって女子勤労挺身隊が送り出された。
 沖縄新報のこの記事は、十・十空襲により延期となったそうした女子挺身隊の送り出しが再び行われるということを報じるものであろう。
 このころの女子挺身隊は、戦況の悪化による兵器の増産の必要性と労働力の不足から、労務担当者が生産性をあげるために「今年一年は結婚は中止せよ」といった声をあげるなど、過酷な状況にあった。また軍需工場は空襲の対象となったため、多くの女子挺身隊員が戦災にあった。そればかりか、後に沖縄戦の実相を知った女子挺身隊員は、ひめゆり部隊の女性など同世代の女性たちが自分が作った手榴弾で自決したかもしれないと精神的にも苦しんだといわれる。

沖縄新報より

 この日の沖縄新報には、次のような記事が掲載された。

敵も苦しいぞ撃墜機が語る”哀れな姿”
物量を唯一の頼みとする驕敵米も既に相当物資難に陥っていることが去る一月二十二日わが沖縄本島に於ける撃墜機によって明かにされた、即ち敵飛行士の被服のお粗末加減と来たら哀れな位で、中尉や大尉でも飛行靴を穿いている者は一人もなく皆普通の編上靴を使用し、軍靴も我が純綿の兵士たちのより粗悪なもので将校服としては比ぶべくもない、ただ生命の安全のみを考へる敵は戦闘機にもゴム製の浮舟を積み込んで不時着の場合に備へ、一日や二日間の糧食を携帯しているが、これは我が特攻隊の出現によって米本国から太平洋向艦船乗込みを拒否する□[ママ]軍人最近の傾向及び特攻隊出動と見るや対空射撃も放って艦内に逃げ隠れる米兵に目下その対策に腐心しているといふ敵の内情をこの飛行機乗りの場合にもあることが窺えるのであるこれによって疑ひの余地もないところで、われわれはこの点を銘記し石に齧りついても頑張り抜いて奴らに白旗を挙げさせるのみである

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

 米軍の士気は低い、戦意は低下している、物資も欠乏している、米軍も苦しいのだと訴える戦意高揚のプロパガンダ記事といえる。
 事実、この日、第32軍参謀長は沖縄北部国頭支隊宇土支隊長に次のような通牒をしている。

球参情第二十七号 国内輿論指導方針ノ件通牒
 昭和二十年二月七日 球第一六一六部隊参謀長
球第七〇七一部隊長殿
敵ノ呂宗島上陸ニ依リ愈々重大化セル現段階ニ即応スル偽[ママ]定メラレタル国内輿論指導方針ノ要旨左ノ如シ
一 我ガ戦争ノ目的ヲ闡明スルト共ニ敵ノ世界制覇、日本民族ノ征服ノ野望ヲ剔抉シ本戦争ノ帰結ハ勝利カ然ラズンバ滅亡ナルコトヲ覚悟セシムルト共ニ正義ノ戦争ナル以上一億ノ敢斗ニ依リ勝利ハ必ズ我ニアル事ヲ確信セシム
二 我ノ苦シキトキハ敵モ苦シキモノナレバ飽ク迄頑張リ抜クモノガ勝利ヲ得ルモノナルコトヲ強調シ戦局ノ一進一退ニ喜憂セズ、有ユル生活上ノ困難ヲ脱シツツ最後ノ勝利ヲ期シ明朗敢斗スベキコトヲ徹底セシム
三 政府ノ施策ニ呼応シ一億体当リ精神ヲ以テ職域ニ敢斗シ戦力ノ増強ヲ図ルベキコトヲ強調ス

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 「球第一六一六部隊参謀長」とは、球第1616部隊すなわち第32軍司令部のことであり長参謀長を、「球第七〇七一部隊長」とは球第7071部隊すなわち国頭支隊のことであり宇土支隊長を指しているが、この球参情は長参謀長が宇土支隊長に「敵も苦しいぞ」と上掲の沖縄新報と同様のことを「国内輿論指導方針」すなわちプロパガンダとして強調せよと通牒するものであり、上掲の沖縄新報の記事も軍のプロパガンダの指導をうけたものと推測される。
 しかし実際の米軍は圧倒的物量で沖縄戦を展開していくのであり、こうしたプロパガンダにより米軍を侮り、日本軍を過信するようになった兵士による無謀な攻撃や住民の疎開拒否などにより、犠牲者が増加していくことになる。

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『南城市の沖縄戦』資料編
・「沖縄戦新聞」第5号(琉球新報2005年2月10日)

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1945年4月1日、沖縄近海に集結する米艦隊:沖縄県公文書館【写真番号101-40-2】