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【沖縄戦:1945年5月21日】首里での徹底抗戦か南部撤退か─第32軍司令部、各兵団より爾後の戦略について意見聴取

徹底抗戦か放棄・南部撤退か

 第32軍司令部はこの日、首里における組織的防衛戦は今や破綻を迎えようとしていると判断した。シュガーローフ・ヒルは突破されたもののなお余儀、国場、識名の縦深陣地によって全陣地の崩壊を阻止し得るものの、むしろ司令部東方の運玉森(コニカル・ヒル)を突破され、司令部南方の津嘉山に米軍が殺到すると全陣地が崩れると強く警戒した。そのため軍は、運玉森方面の戦況を重視し、運玉森の確保と与那原地区への米軍の進出を阻止するとともに、同方面の第24師団および軍砲兵隊を督励した。
 軍はかねてから首里司令部で徹底抗戦を展開するか、これを放棄して沖縄南部の知念半島もしくは喜屋武半島のいずれかに撤退して持久戦を展開する首里放棄・南部撤退かを検討していた。

首里での徹底抗戦案 首里で最後の戦闘を展開することは当初からの計画であり、そのための整備もすすんでいた。一方で残余の5万前後の兵員(もちろん精鋭はほとんど死傷し、歩兵火器の大部分は消耗しているが)を司令部およびその周辺の狭小な地域に収容すると、米軍の物量攻撃の格好の対象となる可能性があった。また砲兵にいたっては収容しきれない可能性があった。

知念半島への撤退案 知念半島への撤退については、地形的には周囲を断崖と海に囲まれ対戦車戦に関しては有利であったが、洞窟陣地の数が少なく部隊を収容しきれない可能性があることと、軍需品の集積が僅少である点が不利であった。また司令部東方から南方にかけて与那原方面への脅威が迫るなかで、司令部南東方向の知念半島に撤退するのは移動や交通という意味でも難しかった。

喜屋武半島撤退案 喜屋武半島は、陸地の正面は八重瀬岳、与座岳が防衛上の要地となり、海側は断崖絶壁となっているため、地形上は非常に有利であった。また天然の洞窟も多く、さらに第24師団の軍需品が相当に集積されているとともに、移動交通の面でも軍主力の後退および軍需品の後送に有利な状況であった。ただし陸正面の地形に若干平易な点があるため、米戦車隊の行動が容易であるところが不利であった。

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首里攻略のため大名高地を進む海兵隊員 45年5月21日:沖縄県公文書館【写真番号83-03-4】

軍の方針について各兵団より意見聴取

 軍司令部は喜屋武半島撤退案がもっとも有利であるとしたが、最後の戦いにおいて決しかねるところもあり、司令部参謀と各兵団参謀はこの日、首里放棄・南部撤退について各兵団の意見を聴取し、協議した(八原高級参謀の手記には22日に協議したとあり、日付について若干の異同がある)。
 第62師団としては、すでにほとんど戦力もなく、軍需品の後送の輸送力もない。また首里洞窟には多数の重傷者がおりながら後送する余裕もなく、これら戦友を見捨てて撤退することはできず、現戦線で最後まで戦いたいというものであった。
 その他、もともと喜屋武半島を担当区域としていた第24師団は、輸送力も健在であるとし喜屋武半島撤退を支持し、独立混成第44旅団は知念半島を担当区域としていたこともあり知念半島撤退を支持した。軍砲兵隊は喜屋武半島撤退を支持し、海軍部隊としては意見なしであった。

 私は、軍全般の状況を説明、今や最後の策を定むべきときである旨を強調し、準備された三つの案に対する、各兵団の率直な意見を求めた。
 上野参謀長[第62師団参謀長]は、平素ほど激越ではないが、濁み声の早口で、次第に自らの言に熱しながら大要左の如く意見を述べた。
 「今となって、軍が後方に退がるという法はない。師団は軍の方針に従い、首里複郭陣地を準備した。これを棄て、後退するとしても、師団には輸送機関がない。数千の負傷者や集積軍需品を後送する術がない。師団は初めから、首里で討ち死にと覚悟している。祖国のために散華した数千の戦友や、さらに同数の負傷者を見棄てて退却するのは情において真に忍びない。我々はここで玉砕したい」
 戦友の血をもって彩った戦場を去ることはできぬ。との言葉は、座にいる者すべてを感動せしめた。
 木谷参謀長[第24師団参謀長]は、優しい小さな声で、軍主力の喜屋武半島後退案に賛成した。京僧参謀[独立混成第44旅団参謀]は知念案を支持し、砂野中佐[軍砲兵隊高級部員]は、軍砲兵運用の見地から喜屋武陣地案に同意する。海軍には別に意見はない。各兵団、それぞれ自己の旧陣地に拠るよう主張している。これは人情の自然というものである。私は、会同の論争に陥るのを避け、「軍司令官がいずれの案を採用されるか、今断言することはできぬが、結局喜屋武案になるのではないかと思う。その理由は……」と既述の利害得失をさらに繰り返し、ついで傷者および軍需品の輸送は、主として第二十四師団の中村輜重隊が任ずる。その輸送力を基準として換算すれば、後方整理は第一線の退却開始五日前から実施すればよろしい。なお第六十二師団および混成旅団の軍需品の補給は、第二十四師団のものをもってすれば、相当間に合うはずだから、この点ご安心を願いたいと結んだ。

※[]内は引用者による註

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 最終的に軍は首里を放棄し喜屋武半島へ撤退することになるが、喜屋武半島にせよ知念半島にせよ、軍の首里放棄・南部撤退案に住民への充分な配慮はなかった。八原高級参謀は住民への配慮として、知念半島方面への避難を「一応指示してあるはず」というが、その表現がすでに住民への配慮の不充分さをあらわしている。
 南部には既に多数の住民が避難しており、軍の南部撤退は住民を戦闘に巻き込み危険に晒した。当然、軍とともに首里周辺の住民も南下するため、これらの住民も戦闘に巻き込まれていく。島田知事は住民保護の立場から首里放棄に強く反対したが、聞き入れられなかったという。後日、軍と県の連絡会議において、軍は住民に知念半島方面へ避難するよう指示したが、すでに米軍が同方面へ進攻を開始しており、軍の指示は遅きに失した。おそらく、このことが八原高級参謀のいう「一応指示してあるはず」の意味するものであろう。
 軍が住民に対し、知念半島方面に避難した場合、そこに残置されている軍の食糧や被服の自由使用を許可したという指摘もあるが、その通知は徹底されなかったともいわれており、いずれにせよ住民のためになるものではなかった。
 こうして南部で軍民が異常な距離感で混在するなかで、軍の壕やガマから住民追い出しや食糧強奪が頻発した。また軍が撤退作業に住民を徴発し使用したことも犠牲者が増える一因となった。沖縄戦の住民の犠牲のかなりの部分が、軍の首里放棄・南部撤退以降によるものであることを忘れてはならない。

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与那原北方「ラブ・ヒル」近くの戦場 無数に掘られている穴は日本軍の塹壕 45年5月21日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111-20-3】

21日の戦況と義号作戦

 首里司令部防衛線はこの日、全線で米軍の攻撃をうけた。
 首里司令部西方・那覇北方地区では、安里東側地区および南側高地の陣地が米軍の攻撃をうけたが、砲迫撃の支援もあって撃退した。
 首里司令部北方大名高地(ワナ・リッジ)では、高地南方にも米軍が進出し、背後からも攻撃をうけた。守備隊の独立歩兵第22大隊は善戦し米軍を撃退したが、高地の一部は依然として米軍に占領されたままであった。また守備隊は夜に入り大名高地一角の米軍部隊に夜襲をおこなったが、多大な損害をうけ失敗した。
 平良町北側高地の陣地も米軍の攻撃をうけたが、陣地を保持した。
 首里司令部北東の石嶺地区では、昨日に引き続き米軍との接近戦が展開されたが、守備隊は陣地を確保した。
 第24師団の中地区隊(歩兵第32連隊)は石嶺東方の130、140、150高地の南西方地区に陣地を構え、米軍の進出を阻止した。
 第24師団長はこの日、捜索第24連隊長に弁ヶ岳右正面を守備する特編大隊(第24師団制毒隊、同兵器勤務隊、同病馬廠)をあわせて指揮させ、弁ヶ岳地区の防衛にあたらせた。
 首里司令部東方運玉森(コニカル・ヒル)方面では、運玉森南側稜線の陣地は米軍の猛攻をうけ、運玉森南側から現在の与那原市街地まで米軍に占領された。運玉森南西500メートルの66.7高地付近に有力な米軍が進出してきたが、これを撃退した。運玉森北西の100メートル閉鎖曲線高地では、守備隊は洞窟に籠り抵抗を続けたが、損害は極致に達した。
 運玉森をめぐる戦いでは、運玉森が臨む中城湾の米艦船より猛烈な艦砲射撃がおこなわれている。米軍は中城湾について米第10軍司令官サイモン・バックナー中将の名をとってバックナー・ベイと呼んだ。
 22日決行予定の義烈空挺隊による沖縄方面空挺特攻作戦である義号作戦では、その前日(21日)に大規模な航空攻撃をおこない、空挺作戦を支援する予定であったが、この日の天候は悪く、航空攻撃はおこなわれなかった。
 この日および翌22日の沖縄戦の地上戦の戦況、および沖縄近海における米艦隊の位置や集結の状況などは次の図のとおりである。

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このころの地上戦況および海上の米艦隊の状況:戦史叢書『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』

米軍「マジック」より

 米軍情報部が日本軍や政府の通信を傍受、解読し、各方面へ「マジック」という名称のサマリーを配信していたが、この日の「マジック」には次のように記されている。

2.沖縄戦の戦訓
東京から主要陸軍司令部に発信された陸軍諜報報告の「沖縄に侵攻した米軍の力量に関する戦訓」は、以下の通りである。
「(1)敵各兵団の力量に、さして大きな違いはない。概して敵の訓練は未熟で、兵士の10から20パーセントは中国兵か黒人兵である(爾後の作戦において、多分多くの国籍を持つ兵が、暴露されるだろう)。
  [略]
 (5)砲弾爆発により、我が洞窟陣地は一酸化炭素が充満し、酸欠を引き起こし病気や死亡にいたるケースがある。一偶に坑道を掘るなどして空調を施す等、事前対応策が必要である」。

(保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版)

 東京、おそらく大本営から本土決戦に向け各地の部隊に沖縄での戦訓が伝達されたが、それを米軍情報部が傍受、解読し、「マジック」として米軍各隊に配信したのであろう。
 ところで、第32軍の防衛担当地区は奄美諸島も含まれており、同諸島には独立混成第64旅団という兵団が配備されていた(なお同旅団の旅団長である高田貞利少将は先島諸島の防衛を担った第28師団長納見敏郎中将とともに、沖縄戦の正式な降伏調印式に出席している)。
 第32軍は沖縄戦にあたって、日々の戦闘の教訓(戦訓)を大本営に送っていたが、その送信情報を独混第64旅団が中継したのか何か詳細は不明ながら、同旅団は45年5月、第32軍から大本営に送った戦訓について「第三二軍沖縄戦訓集」としてまとめている。
 そこには例えば、

五、敵の素質戦力等に関する資料
 1、敵各師団の素質戦力には大なる差異なし。
 2、敵兵には一ー二割の支那人及黒人を含み海兵第一師団には特に多きものゝ如し。支那兵一般に勇敢なり。全般的に訓練不十分にして火力以外恐るゝものなし。
  [略]
 10、瓦斯使用なし但し砲弾炸裂による洞窟内に有毒ガス(一酸化炭素)充満し死者を出せる事屡々なり。排除処置必要なり。

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

などとあるが、これなどはまさにこの日の「マジック」に記載された戦訓と同一であり、この戦訓をもとに大本営が戦訓をまとめ、東京から各地に伝達したものと推測される。
 第32軍は熾烈な地上戦のなかで戦訓を軍中央に報告し続け、軍中央はそれをまとめて本土の各隊に伝達していた。まさに沖縄戦は本土決戦に向けての「死のデータ」の採取場であったともいえる。

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食事の配食に並ぶ海兵隊員と、出撃前にコーヒーを飲む第83魚雷中隊の乗組員たち 45年5月21日撮影:沖縄県公文書館【写真番号01-33-2】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・「沖縄戦新聞」第10号(琉球新報2005年5月27日)
・原剛『沖縄戦における住民問題』(錦正社)

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那覇市の泊小学校に突入する海兵隊部隊:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム【資料コード02006033】【ファイル番号009-02】