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【沖縄戦:1945年8月15日】昭和天皇の「玉音放送」─それぞれの8月15日 ムーレー大佐の招集による第一回仮沖縄人諮詢会が開催される

ポツダム宣言受託と「玉音放送」

 この日正午、ポツダム宣言受託の旨を説く終戦の詔書を昭和天皇みずから読み上げる「玉音」がラジオ放送された。いわゆる「玉音放送」である。
 1941年(昭和16)12月の対英米開戦より数えて足かけ5年、1931年(昭和6)9月の柳条湖事件・満州事変より数えて足かけ15年、アジア太平洋地域を戦場とし、およそ世界中を敵にまわした日本の戦争がここに一つの終わりを迎えた。

昭和天皇、終戦の玉音放送(2015年8月1日宮内庁発表版):NHK戦争証言アーカイブス

 ポツダム宣言そのものは、すでにこの年の7月26日、米英蒋(蒋介石政権、中華民国)の三ヵ国の宣言として発せられていた。宣言の内容は、次の通りである。

ポツダム宣言
千九百四十五年七月二十六日
米、英、支三国宣言
(千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)
一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ

二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ

三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ

四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ

五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ
吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス

六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス

七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ

八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ

九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ

十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ

十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ

十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ

十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス

(外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻:国立国会図書館公開)

 これに先立ち日本は、ソ連に米国との講和を仲介してもらおうと様々に画策しており、近衛元首相を特使としてソ連に派遣することまで計画していたが、ソ連から講和の仲介を取りつけるに至ることなく、ここにポツダム宣言として米英蒋より決定的な降伏勧告、最後通牒が発せられたのであった。ポツダム宣言にはスターリンの署名こそないが、スターリンが参加したポツダム会議において発せされた宣言であるだけに、ソ連に講和の仲介を依頼していた日本の落胆も大きかったことだろう。
 ポツダム宣言発出の翌27日、最高戦争指導会議が開催され、ポツダム宣言についての日本の態度が議論された。外交当局を中心に政府方面はこれを受け入れる他ないと考えつつも、一方的なステートメントでしかないとし、なおソ連の仲介に期待を寄せ、しばらく様子を見ることを主張した。他方、ポツダム宣言が軍隊の無条件降伏と武装解除、戦争犯罪人の処罰などをいう内容であることから、軍統帥部の反発は強かった。軍統帥部は強硬姿勢を打ち出し、抗戦の号令を発すべきだとしたが、鈴木首相や東郷外相の反対もあって、ひとまず外交当局を中心とする様子見のスタンスに落ち着いた。
 しかし日本のメディアは28日、こうした日本のスタンスについて、ポツダム宣言を「政府は黙殺」と表現し報道してしまった。東郷外相は「黙殺」との表現は問題であるとして鈴木首相に注意を促したが、軍統帥部のポツダム宣言への反発はなお強烈なものがあり、東郷外相から注意を促された鈴木首相は軍統帥部の反発をうけいれるかたちで、同日、メディアとの会見においてみずから宣言を「黙殺」と発言してしまい、これが放送されるとともに、30日には首相談話として報道された。この「黙殺」の首相談話は、原爆投下やソ連の対日参戦に利用されることになる。
 そして8月6日、広島に原爆が投下され、ついに日本はポツダム宣言受託に傾き始める。原爆の惨状と米国の強硬な態度が徐々に明確になっていった8日、鈴木首相と打ち合わせた上で東郷外相が宮中に参内し、昭和天皇に現状を説明したといわれる。昭和天皇はその際、速やかに終戦の措置を講ずるよう指示したそうだ。これをもって東郷外相は至急、最高戦争指導会議を開催するよう鈴木首相に伝えたが、会議の開催は翌日となった。
 翌9日、最高戦争指導会議が開催され、ポツダム宣言受託について議論されたが、受託にあたっての条件付与をめぐり紛糾し、この日夜半の御前会議において昭和天皇が皇室の問題以外に条件を付さず宣言を受託するとの意思を述べ、大勢は決した。その上で10日早朝にはポツダム宣言受託の旨が連合国側に通知された(第一次受託通告)。また9日にはソ連の対日参戦がはじまり、長崎にも原爆が投下された。
 12日には連合国側より第一次受託通告に対する回答文(バーンズ回答)が発せられ、いわゆる「国体護持」、すなわちこの回答における天皇制の維持の問題に対する解釈と意思表示について再度紛糾したが、14日の御前会議でポツダム宣言受託(バーンズ回答の受託)が最終確認され、連合国側に第二次受託通告がなされた。続いて終戦の詔書について閣議で検討され、昭和天皇が終戦の詔書を読み上げる録音がなされた。また、この日夜には各部隊に「ポツダム宣言受託について、15日正午に昭和天皇よりラジオ放送がある」との軍報が発せられた。
 そしてこの日正午、ラジオより「玉音」が放送されたのであった。
 ちなみにポツダム宣言受託・降伏決定の主因となったのは原爆投下かソ連参戦か、長い間歴史家の論争の的となっている。具体的には、原爆投下を主因とする麻田貞雄とソ連参戦を重視する長谷川毅の論争がよく知られているが、どちらか一方がということでもなく、両方の要因が絡み合いながら宣言受託・降伏決定へと動いていったといえるだろう。
 他方、そうした外的要因ばかりでなく、国内的にも戦局の悪化に伴う天皇制批判、天皇批判が激化しつつあり、内側からの「国体」の崩壊の危機に瀕する中で、その危機を回避し「国体」を護持するために宣言受託・降伏決定に至ったという国内的要因も無視することはできないだろう。

[証言記録 兵士たちの戦争]昭和二十年八月十五日 玉音放送を阻止せよ:NHK戦争証言アーカイブス

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終戦の詔書:国立公文書館デジタルアーカイブス

それぞれの8月15日

 沖縄に関連すると、例えば八重山の独立混成第45旅団(八重山旅団)は14日、台湾の第10方面軍より終戦が内報されるとともに、傍受していたロイター通信によりポツダム宣言受託の情報に接した。旅団司令部は情報が錯綜し、混乱状態となったが、とにかく降伏の情報は内密にすることになった。この日、終戦の詔勅をうけて旅団司令部は徹底抗戦や自決といった言葉が飛び交い騒然となったが、旅団長の宮嵜武之少将が終戦の詔勅を読み上げ、将兵の自決を厳しく禁じ、全ての部下を一人残らず帰郷させる責任があることを強く説いた。
 宮古島でも第28師団司令部にて「玉音放送」をラジオで聴取し、軍が発行していた「神風」なる情報紙(隔日刊)が翌16日、一面トップで「戦争終結の大詔発せられる」などと報じた。
 久米島では米軍が具志川国民学校の奉安殿にラジオを設置し、「玉音放送」を流したといわれる。これにより鹿山正率いる久米島の海軍部隊も当然、終戦の事実を知ったことであろうが、それでも鹿山隊はこれ以降も住民殺害を続ける。
 沖縄北部の護郷隊は、一ツ岳の剣隊(大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊、特務隊、特務班、剣隊などと呼ばれる)より終戦の報を聴取し、事態を把握した。
 ラサ島(沖大東島)では昼のラジオ放送を聴取していたところ、終戦を知ったといわれる。ラサ島守備隊長森田芳雄中尉は戦後、次のように回想している。

 八月十五日。昼のラジオ放送で、よくは聞きとれなかったが終戦を報じているらしい、と尾藤上等兵が報告する。夕方、もう一度確認するため、私は直接観測所の洞窟通信所へ行った。まだはっきりとは聞きとれないが、どうやら玉音の再放送のようだ。降伏、終戦という事実だけはわかった。[略]
 八月十六日。きょうのラジオ放送で、いよいよ降伏、終戦が明らかになった。それでもまだ、[南大東島の─引用者註]守備隊からはなんともいってこない。しかし、決定的事実なので、これ以上部下に通達しないわけにはいかない。夕刻七時三十分。私は全員を集め、戦争が終結したことを説明し、追って守備隊から細部の命令があろうから、それまでは平常どおりに任務につくように、と念を押した。
 その夜、私はこっそり各分隊の洞窟分散所を、なるべく人目につかぬように忍び足でまわってみた。あってはならない事実を、兵隊たちはどう受けとっているか、またどう考えているかを知りたかったのだ。
 床の中でボソボソと話し合っている者たち。多くは、もうすぐ見ることができるであろう懐かしい故郷の山河や町のたたずまい、そして待ちこがれる肉親、知人たちの話題などで持ちきりであった。別の箇所では、安堵しきったのであろうか、安らかな寝息が、また時には、これまでの疲れを一気に吐き出すかのようないびきが聞こえてくる。安らかな寝息といびきのコーラスは、長い戦いから解放された兵隊たちが、久しぶりに深い眠りの中に味わった平和の象徴でもあったろう。

(森田芳雄『ラサ島守備隊記 玉砕を覚悟した兵士たちの人間ドラマ』光人社NF文庫)

 住民に変装し米軍に保護投降されていた第32軍八原博通高級参謀は、このころの状況を次のように回想している。

 私は心中深く脱走を期しつつ、表面は何食わぬ顔で皆と接触していた。苦しい日々であったが、間もなく驚天動地の大事件が相次いで勃発した。
 広島、ついで長崎に原爆投下、ソ連の参戦、皆機を逸せずアメリカ第十軍の機関紙『バックナー』が報じた。さらに十日同紙は日本が皇位の問題を除いて無条件降伏を申し込んだ旨、大々的に報じた。
 ラモット中尉、それに衛兵たちは狂喜した。この夜沖縄全島に亘り銃砲声が鳴り響いた。欣喜雀躍したアメリカ軍が祝砲のつもりでめちゃくちゃに乱射乱撃したのである。「ホームタウン」「故郷の町」の歓声が銃砲声の間に間に絶えなかった。
  [略]
 八月十五日『バックナー』紙は英訳の天皇の詔書全文を報じた。ついに戦争は終わったのである。[略]

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 前田高地の戦いを奇跡的に生き延び、前田の洞窟で息を潜め続けた第24師団歩兵第32連隊第2大隊(志村大隊)は、このころ前田高地から棚原、北上原を経由して国頭方面への脱出を企図していた。そのため志村大隊に配属されていた外間守善氏は、このころ国頭方面脱出のため北上原で米軍トラックを奪取する「自動車分捕り作戦」の準備をしていた。外間氏は次のように回想している

 いよいよ分捕り作戦決行の日がやってきた。実行には日原中尉が指名された。今か今かと分捕り成功の合図を待っていると、中城湾に碇泊している米軍艦と輸送船団がいっせいに満艦飾に彩られ海からも陸からもおびただしい砲声銃声が轟いた。狐につままれたような夜が更けていった。後日わかったことだが、この日は八月十五日。日本の無条件降伏を祝う祝砲だったのだ。そうとも知らぬ我々はトラック分捕りを夢見ながら更に三週間近く北上原に潜むことになる。

(外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川ソフィア文庫)

 九州の鹿屋基地で沖縄方面航空特攻作戦を指揮実行していた海軍第5航空艦隊宇垣纒司令長官はこのころ大分基地に移っていたが、「玉音放送」に接し、みずから航空部隊を率い、沖縄方面に特攻出撃することを決した。この日17時ごろ、宇垣長官ひきいる「彗星」11機は沖縄洋上へ向けて離陸、19時24分機上より訣別電が、20時25分「我奇襲ニ成功ス」との信号が発せられた。
 宇垣長官は『戦藻録』という日記を綴っていたが、『戦藻録』のこの日の日記には次のように記され、閉じている。

 正午君が代に続いて天皇陛下自ら御放送遊ばさる。
 ラジオの状態悪く、畏れ多くもその御内容を明にするを得ざりしも大体は拝察して誠に恐懼これ以上のことなし。親任を受けたる股肱の軍人として本日この悲運に会す。慚愧これにごとくものなし。嗚呼!
 参謀長に続いて城島一二航戦司令官余に再考を求めたるも、後任者は本夕刻到着すること明にして事後の収拾に何ら支障なし。未だ停戦命令にも接せず、多数殉忠の将士の跡を追い特攻の精神に生きんとするにおいて考慮の余地なし。
  [略]
 事ここに至る原因については種々あり、自らの責また軽しとせざるも、大観すればこれ国力の相異なり。独り軍人たるのみならず帝国臣民たるもの今後に起こるべき万難に抗し、ますます大和魂を振り起こし皇国の再建に最善を尽くし、将来必ずやこの報復を完うせんことを望む。余また楠公精神を以て永久に尽くすところあるを期す。
 一六〇〇幕僚集合、別盃を待ちあり。これにて本戦藻録の頁を閉ず。

(宇垣纒『戦藻録』下巻、PHP研究所)
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特攻出撃する直前の第5航空艦隊宇垣司令長官:宇垣纒『戦藻録』下巻、PHP研究所

 収容所でも住民たちがそれぞれの「8月15日」を迎えた。

 八月十五日、制服姿の若い米軍将校が通訳を伴って校長に会いに来た。聞けば、日本の無条件降伏を祝して、全校職員と児童に万歳をさせろということであった。何事かと職員と児童たちはすでに集まっていた。校長は、教頭どうぞと言うふうであったが、教頭も笑って相手にしなかった。米軍将校は、この間おだやかに静観するだけであった。
 やがて校長は、おもむろに服をただし、蚊の鳴くような声で、手を半分ほど挙げて「バンザーイ」と叫んで、重大任務を果たした。米軍将校は「サンキューヴェルマッチ」と言って帰った。その将校は、米軍が琉球住民の敵日本軍を降伏させたのだから、当然琉球の人々も大変喜んでいるものと考えていたのだった。

(『読谷村史』戦時記録、下巻 )
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日本軍の降伏を通訳から聞き喜ぶ沖縄住民 45年8月15日撮影:沖縄県公文書館【写真番号79-16-1】

 また後の「琉球新報」となる「ウルマ新報」はこの日、「渇望の平和 愈々到来!!」との見出しで、ポツダム宣言の受託や広島への原爆投下などを報じた。

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ポツダム宣言受託を報じるウルマ新報:沖縄県公文書館所蔵

仮沖縄人諮詢会の開催

 この日、石川地区に沖縄島39ヵ所の収容所から128人の住民代表が召集され、第一回仮沖縄人諮詢会が開催された。ニミッツ布告により海上交通は封鎖されており、周辺離島からの参加はなかった。また開会式がおこなわれる会場で「玉音放送」が流れて参加者に衝撃が走ったが、むしろ「新沖縄建設」の使命感を燃え立たせたという。
 会議にあたり、軍政府副長官のチャールズ・I・ムーレー大佐による「ムーレー大佐の声明」といわれる以下の声明が発せられた。長文ではあるが、以下に全文を掲載する。

仮沖縄人諮詢会設立と軍政府方針に関する声明
一、本官は軍政府副長官として沖縄に対する軍政府の方針、該方針遂行上沖縄住民に対する軍政府の期待、本会の為すべき事柄等説明するために本諮詢会を石川に招集したのである。
二、米軍政府の方針は沖縄住民が普通平時の職業及び生活様式に復旧し、自己の問題に就き漸次現在以上の権利を[行使し]得べき社会、政治、経済組織を可及的迅速且広範囲にわたり設立することをその主眼とする。今日までは軍事上の必要並に戦争のもたらした非常事態のために本島民事は殆んど完全に米軍政府当局に於て取扱わなければならなかった。而して諸問題処理に就ては沖縄の住民は貴重なる援助を与えて呉くれた、彼等は忠実に能く軍政府当局と協力した。今や従前以上の責任と広範囲にわたる義務を委任し得べき時期が到来した様に思われる。本官は住民に於て此の大なる責任を負担する決意と能力がある事を期待して居るのである。沖縄の住民が漸次生活の向上と自己の問題に対する自由の回復を期待し得る安定した制度の設立は諸君が新に委任された任務を能く遂行する事に係っている。米軍政府は引続き指導と物質的援助を与える。然し責任と管理は漸次沖縄の住民に委譲されなければならない。
三、戦争遂行上の必要は本島の面積の大部分を農産面より撤去し、少くとも戦時中は多数の住民を従来人口の稀薄にして住民を収容するには狭隘にして、肥沃ならず、且つ十分なる居住施設なき区域に移転することを余儀なくした。この事態に関連して起こる問題こそ軍政府及び住民の今後直面する問題の主要なるものである。
四、仮沖縄人諮詢会の諸君は、沖縄の政治、経済、福祉に通暁せる沖縄人として慎重に選定されたのである。諸君のうち一部は曾て責任ある地位にあり、又一部は現在各々の区域の組織管理及び福祉増進のため活動し重要な任務を負担している。諸君を招集した特別の目的は本官に於て沖縄人諮詢委員を選定するの必要上、人を推薦してもらうためである。右候補者は諸君の中より又は本会に出席し居らざる沖縄人にして委員候補者として考慮せらるべき者の中より詮衡しても差し支えがない。
五、軍政府に於ては諸君が直ちに会議を組織し本声明を審議し本日中に各々その区域に帰還することを予定している。而してこの声明を地方住民と共に討究し沖縄人諮詢委員会に何人が彼らを代表する事を望むか。その意見を徴せられたい。諸君は来る八月二十日石川に再会し同日諸君に於て沖縄人諮詢委員会員として最適任者たることに一致した十五名の沖縄人氏名を提出せられたい。本会は委員候補者推薦後、一応は停会し、今後本官の必要と認むる時に集会するものとす。
六、諸君の審議及び委員候補者詮衡に当りては人民に住居、被服、食糧及び医療を施すことが当面の主要問題であることを念頭に置かなければならない。この問題は今日までの主要問題であり、今後引続き緊要なる問題である。米軍政府当局は引続き建築材料、被服、補給食糧、医薬類物資等を提供する。然し住民が外部の援助より独立すべく可急的に計画に努力することを期待する。

 こうして沖縄諮詢会の結成と住民の政治参加の方針が声明された。そこで第一回仮沖縄人諮詢会では諮詢委員候補を選ぶために20人が推薦され、この20人が諮詢委員候補者として24人を選出した。閉会後、各地区ではかり、20日に15人の諮詢委員が決定、29日には志喜屋孝信を委員長として沖縄諮詢会が設置された。戦後の沖縄で最初の住民による中央政治機構が誕生したのであった。
 ただし沖縄諮詢会が直接に行政をおこなうものではなかった。沖縄諮詢会は文字通り「諮詢」の会であり、軍政府の諮問に応じるものでしかなく、米軍の許す範囲の自由を与えられたに過ぎなかった。それでも諮詢会は女性参政権の実現を熱心にすすめるなど、46年4月22日に沖縄民政府が樹立されるまでの約8ヶ月という短期間ではあったが、自治と民主主義を展開していった。

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沖縄諮詢会堂前での沖縄諮詢会委員の集合写真 前列左から3人目が志喜屋孝信:沖縄県公文書館所蔵

参考文献等

・戦史叢書『大本営陸軍部』<10>
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・小林武「占領最初期の沖縄の統治構造─『沖縄諮詢会』についての分析を中心に─」(『愛知大学法学部法経論集』第201号、2014年)
・川平成雄「米軍の沖縄上陸、占領と統治」(『琉球大学経済研究』第75号、2008年)
・山田朗「研究ノート 日本の敗戦と大本営命令」(『駿台史學』第94号、1995年)

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45年8月14日の御前会議の様子 白川一郎画