久米島銭田海岸への上陸
米軍はこの日朝8時ごろ、上陸用舟艇で久米島の仲里村銭田イーフ海岸に上陸した。久米島に配備されていた鹿山正兵曹長(戦中に兵曹長から少尉に昇進していたようだが、戦後になるまでそれは伝わっておらず、本人も知らなかった)を隊長とする海軍沖縄方面根拠地隊付電波探信隊(海軍鹿山隊)の抵抗はなく、無血上陸であった。また住民はみな山奥へと蜘蛛の子を散らすごとく逃げていったといわれる。
この日の久米島の警防日誌には次のように記されている
日誌にある山ノ隊や山部隊とは鹿山隊のことである。島は米軍上陸により緊迫した空気に包まれ、警防団は鹿山隊と連絡を密にしていたことがわかる。
警防団長を務めていた内間仁広のこの日の日記には、次のようにある。
最後の一行、「この辺から山も住民も異常心理状態」。先ほど述べたように「山」とは鹿山隊のこと。短い文言に恐ろしいくらいの緊張感が凝縮されている。
また久米島具志川村農業会の会長を務めた吉田智改氏のこの日の日誌には次のように記されている。
米軍上陸に恐怖し、そして住民と米軍の接触を恐れつづけ、「銃殺」までもちらつかせて住民を威嚇し、統制していた鹿山隊にとって、いよいよ来たるべき時が来たわけであり、鹿山隊により住民20人が虐殺されるという久米島の悲劇がこの日からはじまっていく。それとともに、吉田氏の日記にはこれまで食糧も金品も鹿山隊に供出、協力してきた様子がうかがえるとともに、「鬼畜」とまでいわれる鹿山のこれまで行状から、米軍よりむしろ鹿山隊を恐れている様子がうかがえる。
八原高級参謀の投降
本土に帰還し、本土決戦へ合流せよと命じられた八原高級参謀は、牛島、長両将軍の自決後、摩文仁の司令部壕を出撃し、7月末ごろまでに国頭に転進し、海路奄美方面へ脱出する計画であった。まずは少数の部下と摩文仁から具志頭方面へ潜入するため、米軍の警戒網をかいくぐりながら洞窟に潜んでいたが、ついにこの日、米軍に包囲され、投降した。
沖縄戦に関する本土メディアの報道
この日、大阪朝日新聞は、沖縄戦について次のように報道している。本土決戦を見据え戦意を昂揚させるための記事であるとともに、本土や米軍から見た沖縄の戦略的位置づけがよくわかるものであり、それは当然、日米にとって沖縄戦がどのような戦いであったのかを示すものである。また国民義勇兵役法の制定について触れ、本土において様々な準備をした上で国民皆兵で戦うのだからこちらが有利だというような一文にも着目したい。
参考文献
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
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米軍に投降、降伏する鹿山正 45年9月7日:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦