見出し画像

【沖縄戦:1945年6月26日】久米島に米軍上陸 「鬼畜」と呼ばれた久米島の日本軍部隊長

久米島銭田海岸への上陸

 米軍はこの日朝8時ごろ、上陸用舟艇で久米島の仲里村銭田イーフ海岸に上陸した。久米島に配備されていた鹿山正兵曹長(戦中に兵曹長から少尉に昇進していたようだが、戦後になるまでそれは伝わっておらず、本人も知らなかった)を隊長とする海軍沖縄方面根拠地隊付電波探信隊(海軍鹿山隊)の抵抗はなく、無血上陸であった。また住民はみな山奥へと蜘蛛の子を散らすごとく逃げていったといわれる。
 この日の久米島の警防日誌には次のように記されている

 六月廿六日 晴  本日当直 上江洲昌偉
  米軍久米島へ上陸
敵艦船島尻沖ヨリ奥岬迄十隻往復 内三隻ハ港内ニ入ルト儀間警防本部ヨリ報告アリ(午前六時五十分頃)直チニ山ノ隊ヘ通報 七時四十分、敵兵四十人戦車四、五台銭田海岸ニ上陸ノ儀間本部ヨリ通報アリ一般ヘ避難命令ヲ出ス 山部隊ニ急報セシニ恒上等兵曹当山一水拆[ママ、以下同じ]候ニ来所 喜納副団長ト共ニ仲里真加[ママ、以下同じ]里方面迄拆候ニ行ク 拆候報告ニ依レバ真加里ヨリ向フニハ前進不可ニテ銭田ヨリ謝名当迄ハ敵相当浸入セリト 夜間ハ各部落ニ厳戒ヲ命ジ本部ニハ団長以下徹夜警戒ヲナス

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 日誌にある山ノ隊や山部隊とは鹿山隊のことである。島は米軍上陸により緊迫した空気に包まれ、警防団は鹿山隊と連絡を密にしていたことがわかる。
 警防団長を務めていた内間仁広のこの日の日記には、次のようにある。

六月二十六日 火 晴 昌文、昌偉
敵艦船島尻沖よりオー岬まで十隻位往復。うち三隻は港内に入るとの儀間警防本部よりの報告により前六時五十分頃、この旨受けつけ山に通報、七・四〇頃、敵四〇人戦車四、五台上陸の報あり。一般へ避難命令だす。一三時頃斥候よりの報告によるとマガリまで敵侵入、謝名堂、銭田まで敵の勢力下にありと。
夜、割に平穏、別に変つたことなし。徹夜して厳戒す。
◎この辺から山も住民も異常心理状態

(『久米島町史』資料編1 久米島の戦争記録)

 最後の一行、「この辺から山も住民も異常心理状態」。先ほど述べたように「山」とは鹿山隊のこと。短い文言に恐ろしいくらいの緊張感が凝縮されている。
 また久米島具志川村農業会の会長を務めた吉田智改氏のこの日の日誌には次のように記されている。

 六月二十六日 丙寅
 米軍上陸 入山六六日目 空襲九十六日目
 午前八時 仲里村イーフ浜に米軍無血上陸す
 農民は皆山へ山へ奥へ奥へと蜘蛛の子を散したが如く四散した。
 米軍の素相の判明する迄は努めて発覚を避け山奥へ山奥へと移動するのであるが、小さな島の範囲内ではどうにもならぬ。
  [略]
 最も米軍上陸せば軍への食糧支給に困るからと云う予想で字婦人の夜業で米搗きを頼み、軍に対してはあらかじめ余分に支給はしてあるが軍属を加えて四十余名の人間を賄う飯米としては十日分の食料には不足するかも知れない。もし糧食つきて窮すれば彼等は民間に喰い入るか農業会の責任者を求めて強要することは疑いない。こうなると会長と専務は大に警戒を要すると云うことになるのである。殊に鬼畜の如き鹿山のことだからむしろ米軍よりも危険率は多いと云うことになり、之れに対する対策をも講じて置かねばならぬ。状況の如何に依りては日軍を民間へ割り込ませ便衣隊を造るにしても現金の必要を感じるが、農業会も永く日軍をまかないし為め殆んど資金を使いつくしいくらもない。小金を所持しては良案も出ず心細い極みである。

※句読点を引用者が適宜付した。

(同上)

 米軍上陸に恐怖し、そして住民と米軍の接触を恐れつづけ、「銃殺」までもちらつかせて住民を威嚇し、統制していた鹿山隊にとって、いよいよ来たるべき時が来たわけであり、鹿山隊により住民20人が虐殺されるという久米島の悲劇がこの日からはじまっていく。それとともに、吉田氏の日記にはこれまで食糧も金品も鹿山隊に供出、協力してきた様子がうかがえるとともに、「鬼畜」とまでいわれる鹿山のこれまで行状から、米軍よりむしろ鹿山隊を恐れている様子がうかがえる。

画像3
久米島への米軍上陸の状況:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦

八原高級参謀の投降

 本土に帰還し、本土決戦へ合流せよと命じられた八原高級参謀は、牛島、長両将軍の自決後、摩文仁の司令部壕を出撃し、7月末ごろまでに国頭に転進し、海路奄美方面へ脱出する計画であった。まずは少数の部下と摩文仁から具志頭方面へ潜入するため、米軍の警戒網をかいくぐりながら洞窟に潜んでいたが、ついにこの日、米軍に包囲され、投降した。

 再び洞窟の夜は明けた。六月二十六日だ。岩盤上の生活も、すでに二昼夜。初めは天国のように思えたここも、敷物もなく、着のみ着のままで、ぎざぎざの岩上に起居するのが、苦痛となってきた。佐藤、新垣を呼び寄せ、今後の脱出方法を研究する。[略]今夜断崖を越え、与座、仲座付近を経て、八重瀬岳方面に脱出することに話を決めた。
 どういうものか、けさは敵機が盛んに我々の頭上を飛び、ただならぬ気配を示し始めた。これは危いと思い、岩盤の上から、下手の洞窟内にはいる。[略]
[略]しまったと思う瞬間、巨大な一アメリカ兵がぬっと海中に姿を現わした。射距離約三十メートル、自動小銃を構えて「カムオン! 出て来い」と叫んでいる。[略]
[略]私は難民の先頭にあって、首をのばして入り口の方を覗くと、ここからも一人のアメリカ兵が拳銃を手にして立ちはだからい、「カムオン!!」「出て来い」を連呼している。
 一人のわが敗残兵が、小銃を手に皆の前に踊り出し、アメリカ兵がはいったらやっつけると大見栄をきった。[略]私は思わず叱咤して二人を後方に退けた。いつの間にか、私は指導者の地位に立っていた。洞窟の外では、アメリカ兵が、「早く出て来い。出て来なければ、いよいよ攻撃を始めるぞ」と叫んでいる。
 最後の決断をなすべきときがきた。私は、私の前もって考えていた方針に従い、自らの掌握下にはいった難民をリードし、その一員として、今後の方途を策するに決意した。避難民の身の上を考えても、彼らは、敵手に落ちれば虐殺暴行されるものと思い込んでおればこそ、ここで憐れな生活に耐え忍んでいるのだ。私は二年間の駐米生活で、アメリカ人の本質は承知している。今私の支配下にある数十名の難民を敵手に委しても、現在以上不幸な境地に陥るとは考えられない。彼らの生命を救うべきである。彼らは、潔くこの洞窟を出て行くのがよい。私は難民たちに呼びかけた。「諸君は、今やアメリカ軍の要求通り、洞窟の外に出て行くのが、最も賢明である。皆様が、もし賛成ならば、私が代わってアメリカ軍と交渉する」
 私の提案に対し、ほとんど全員危険の色を浮べている。三人の年ごろの娘を連れた例の品の良い老夫婦は、「そのようなことは、なんとかせぬようにしてくれ」と哀願の態である。娘たちは泣いている。佐藤、新垣は当惑気である。「大丈夫だ。心配するな。私の言う通りにせよ!」と決然たる態度を示した。恐怖のあまり判断力を失い、自失した人々を指導する急場においては、断固たる態度が必要である。私は、回廊の出口に立っているアメリカ兵に、「この洞窟の中には、数十名の老若男女が避難している。今から皆が私と一緒に出て行くから発砲するな」と英語で話しかけた。彼は「よろしい。一切の武器を棄てて出て来い」と答える。
 「射つな!」「武器を棄てよ!」と交互に繰り返しつつ、とうとう私は洞窟外に一歩を踏み出した。温和そうなアメリカ兵だ。彼のすぐ後ろにも、二名のアメリカ兵が微笑して控えている。戦う者の荒々しい気持ちは感じられない。岩間を通して見える五、六十メートル向こうの海岸には、アメリカ兵約一個中隊が物々しく展開して、攻撃部署につき、さらにその後方には、南国の海が陽光に輝いて広々とひろがっている。
 私とアメリカ兵の和やかな対談振りに安心したのか、私の声に応じて、老人、女、子供、そして負傷したわが兵士らしいものが、続々と出てきた。攻撃部署を解いた部隊の中から、多数のアメリカ兵が躍び出して、老人の手をとり、あるいは子供を抱えて一同を援助する。美しい場面だ。今や敵も味方もない。人間愛に充ちた光景である。かつて豪雨のある夜、フィラデルフィアの南郊外で、自動車を路外に暴走させて困却した際、付近に住む青年たちが、雨をおかして駆けつけ、助けてくれたことをつい思い出してしまった。
  [略]
 我々が案内された所は、糸数高地南麓の富里村であった。難民収容所の入り口で、アメリカ軍の憲兵らが一人一人に市民証を交付する。年齢を問われたので、四十七歳と答えた。実際は私は四十二歳だった。しかし満十七歳以上四十五歳までの男子は、皆防衛召集をしていたので、敵も知っているはずと思い、これに該当しない四十七歳と申し立てたのである。憲兵は、正直に私の言う通りに、市民証に四十七歳と記し、摘要欄に二十五歳ないし四十歳と推定すると書いた。嘘を言ったので、ちょっと気がとがめたが、アメリカ人は、日本人の年齢を相当若く見るのが常だからやむを得ないと思った。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀』中公文庫)
画像2
廃墟となった集落を後にし、米軍政府の収容所に向かう地元民 45年6月26日撮影:沖縄県公文書館【写真番号113-23-3】

沖縄戦に関する本土メディアの報道

 この日、大阪朝日新聞は、沖縄戦について次のように報道している。本土決戦を見据え戦意を昂揚させるための記事であるとともに、本土や米軍から見た沖縄の戦略的位置づけがよくわかるものであり、それは当然、日米にとって沖縄戦がどのような戦いであったのかを示すものである。また国民義勇兵役法の制定について触れ、本土において様々な準備をした上で国民皆兵で戦うのだからこちらが有利だというような一文にも着目したい。

過去最大の激戦
 本土決戦に貴重な戦訓

沖縄戦局は今や地上における主力戦の終了によって事実上最終段階にたち至った、さきに帝都南方一千二百キロの本土正面に硫黄島基地を獲得した敵が、今また九州南端から約六百キロを距てる沖縄本島の基地を確保することは敵が本土正面に左右両翼の本土侵攻基地を完成したことを意味するもので、大東亜戦争は沖縄戦の最終局面到達によりまさに本土を戦場とする最終決戦の段階に突入するものである、阿南陸相も去る二十三日夜の放送で戦線遂に本土に立ち至った苛烈深刻な戦況を率直に認め、これに対する軍の責任痛感の真情を披瀝している、敵の沖縄本島獲得はいふまでもなく敵の本土侵攻左翼基地獲得を意味するものであるが、これによって生ずる敵の戦略態勢の飛躍、敵の同島活用の企図は去る二十二日ニミッツ司令部が発表した公式覚書「沖縄島の戦略価値」がこれを物語っている、敵が沖縄島の戦略価値として挙げるところは
一、支那乃至日本あるひはその双方への侵攻のために爆撃機および戦闘機の掩護基地を米国に与へる
二、海軍碇泊基地となる
三、前進兵站になる
四、大量爆撃と海空封鎖を主要兵器とする補助的消耗戦の基地としても重要である
の四点である、敵はすでに沖縄方面に伊江島基地を併せて飛行場十数箇所を整備拡充しB24を含む約六百機の基地空軍を推進している、今後中城湾、嘉手納、慶良間海面における海軍碇泊基地の建設とともに敵が沖縄を基地とする海空勢力を挙げて満州、朝鮮を含む大陸戦力と本土との遮断、さらに本土蓄積戦力の破壊を強行してくることは必至である
マリアナ基地一千機に上るB29、これに呼応する硫黄島のP51戦隊による本土中小都市の徹底爆撃、本土機雷封鎖の激化と共に本土侵攻の前段をなす敵の航空攻勢を主体とする総攻撃が開始されるわけである
米大統領トルーマンは去る二日対日四戦略として次の諸点を挙げた
一、日本軍を現在駐屯する地域に釘附孤立化し各個撃破戦術をとる
二、攻撃目標に対しては圧倒的な兵力を集中する
三、火砲その他あらゆる兵器を大量的に集中し人命の損失を出来るだけ少くして勝利を確保する
四、陸海空兵力を最大限に動員し日本軍に対して不断の仮借なき圧迫を加重し敵をして態勢を立て直す閑を与へない
トルーマンのこの揚言の中に敵が今後企図する大陸と本土との遮断、本土に対する航空攻勢の野望が明かに露呈されている
沖縄基地獲得によって齎される敵側のかくの如き戦略態勢の飛躍は敵側の揚言を待つまでもなく率直にこれを認めるところである、ここに国土決戦を迎へる一億の覚悟が生まれる、阿南陸相は二十三日夜の放送で「戦ひの様相はますます悽愴を極むること必至であり敵がまづ徹底的爆撃によりわが戦力、国力を枯渇せしめたるのち上陸を企図する算もまた少しとせぬ、国家民族を賭するこの一戦に勝つためにはまだまだ千辛万苦をなめることは覚悟することが必要なことは勿論、これに堪へ得るところに日本民族の強さがあり大和魂の発揮がある、日本を救ふものは他にない」と述べている、国民義勇兵役法の実施により文字通り国民皆兵の実現せられた本土には国土決戦に備へる諸施策が着々と整備されている、この本土においてこそはじめて離島作戦の不利を脱却し敢へて敵に勝る国土兵站の利を活かし「好む時好むところ」において敵に決戦を挑むことが出来る
さきの臨時議会で「敵にして本土に侵攻し来らば海上において航空部隊特に特攻部隊をもってこれを撃つ、水際、陸上に免れて侵入し来るものあらばその時こそ帝国陸軍は猛然蹶起して文字通りその敵を大海に排擠殲滅せざる限り、断じて鋒を収むるものではない」と来敵必滅の決意を語った阿南陸相は二十三日夜の放送で「この時この際陸軍自身も十分反省し自らも正しつつ十分責を負うて戦力の中核たることを期する考へである」と本土決戦に臨む帝国陸軍の自省自責の真情を吐露した、敵撃滅の最終決戦場として自ら選ぶ本土戦場において来敵を殲滅せずしてなんの陸軍ぞの自省と覚悟を明瞭に読みとることが出来る、帝国陸海軍のこの覚悟こそ着々と整備されつつある国土戦力の中核となすものであり、帝国陸海軍のこの真情に感応するところに真に一億の戦意はさらに油然と盛り上って軍に直結するのである、来敵必滅の時期はすでに開かれている

(『宜野湾市史』第6巻 資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)
画像1
第3水陸両用軍団を視察するスティルウェル陸軍大将(左から2人目、ハットの人物) 45年6月26日撮影:沖縄県公文書館【写真番号81-33-3】

参考文献

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦

トップ画像

米軍に投降、降伏する鹿山正 45年9月7日:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦