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【沖縄戦:1945年6月20日】「最後ノ段階迄立派ニヤッテ国軍ノ為ニナルヤウニ」─第32軍への昭和天皇の「御言葉」

20日の戦況

 第32軍司令部と各兵団の連絡はほとんど途絶し、全体の状況は判然としなかったが、司令部のある摩文仁を中心とする地区、また司令部手前の新垣や真栄平を中心とする地区の戦闘が激烈であった。
 第32軍はこの日の戦況を次のように報告している。

 球参電第六四八号
六月二十日ニ於ケル状況 通信連絡殆ト杜絶シ各兵団ノ状況不明ナルモ摩文仁ヲ中心トスル地区ニ於テ昨十九日報告□□ノ東半部ハ敵ノ奪取スルトコロトナリ戦車約十輌、砲三門ノ敵ハ[以下断絶]
 第二十四師団司令部附近本朝尚組織的戦闘ヲ続ケ□□ラシキモノニシテソノ各部隊ハ依然新垣北方高地、真栄里東方高地、真壁北側高地附近ヲ各中心トシテ□□ナルモノノ如シ敵機ノ活動本日極メテ低調ナリ

※□は判読不能、[ ]内は引用者による注記

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 第24師団雨宮師団長はこの日、これ以上の組織的戦闘の継続は困難であるとし、

 師団は茲に組織的通信機関破壊さられ統一的指揮不可能の現状に鑑み各部隊は現陣地付近を占領し最後の一兵に至るまで敵に出血を強要すべし 苟も敵の虜囚となり恥を受くる勿れ 最後の忠節を全うすべし 隣接部隊と合流するを妨げず

(同上)

との趣旨の訓示をした。昨日の第32軍の最後の軍命令同様、投降を断じて許さず、徹底抗戦を命じるものであり、残存兵士を苦しめることになる。
 また、この日、昨日発せられた第10方面軍の感状が第32軍に到着し、軍は感謝の返電を発した。

[略]私は感激を抑えつつ、[方面軍からの感状を]静かにゆっくりと読んだ。聞き終わられた[牛島、長]両将軍は、しばらく瞑目、何事も申されなかったが至極満足そうである。私は参謀長の枕頭にあった通信紙と鉛筆を借り、立ったまま返電を起草した。
「四囲を圧する敵軍に対し、残兵を提げて、最後の突撃を決行せんとするこの劇的瞬間において、茲にわが第三十二軍に感状を授与せらる。真に感激の至りにして、光栄これに過ぐるものなし。沖縄の島を血に染めて、殪れし幾万の英霊はもって瞑すべく、今なお孤塁に拠りて、血戦を続ける残存将兵も、また感奮を新たにすべし。茲に謹みてお礼申し上ぐるとともに、掉尾の勇を振るいて、敢闘し閣下のご期待に背かざらんことを誓う」
 参謀長は横臥したまま、三回ばかりこの電文案を私に繰り返し読ませた後、「……授与せらる」の次に、「これ方面軍司令官閣下、参謀長閣下ならびに閣下各位の懇篤なるご指導ご援助の賜物にして、親父の温情肺肝に徹す」の句を、また「……敢闘し」の次に、「上聖慮に副い奉り」の句を挿入するよう命ぜられた。感状文は千葉准尉に命じて複写させ、決死伝令をもって隷下諸兵団に伝達した。乱戦の間、遺憾ながら第一線の将兵に徹底したかどうかは確信がない。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)
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沖縄南部の高台から谷の向こう側の日本軍陣地を砲撃する海兵隊 45年6月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号83-33-3】

軍中央の動向

 参謀総長はこの日、第32軍からの訣別電を昭和天皇に上奏した。宮崎第一部長は、上奏の際の昭和天皇の言葉として、

 第三十二軍ハ長イ間非常ニ優勢ナル敵ニ対シ孤軍奮闘シ敵ニ大ナル損害ヲ与ヘ大層ヨク奮闘ス然シ最後ノ段階迄立派ニヤッテ国軍ノ為ニナルヤウニ

(戦史叢書『大本営陸軍部』<10>)

と記している。第32軍はよくやった、しかし「最後ノ段階迄立派ニヤッテ国軍ノ為ニナルヤウニ」というのが第32軍の訣別電に接した昭和天皇の「御言葉」であった。
 また、この日、第32軍の組織的戦闘の終了をうけ、次の要旨の大陸命第1352号が発せされた。

一、大本営ノ企図ハ本土ニ侵寇スル敵軍ヲ撃滅シテ其非望ヲ破摧スルニ在リ
一、第十方面軍司令官ハ台湾及先島方面ニ来攻スル敵ヲ撃破スルト共ニ南西諸島方面敵空海基地ノ制圧ヲ図リ本土方面全般ノ作戦ヲ容易ナラシムヘシ
  [略]

(同上)

 あくまでも軍中央の関心は本土決戦にあり、第32軍の組織的戦闘終結後、上級軍である第10方面軍に課されたものは、駐屯している台湾および先島に攻め立てる敵を撃破することはもちろん、本土決戦を支援するために南西諸島方面の米軍基地を制圧することであり、いわば第10方面軍に第32軍の任務が与えられたということがわかる。
 昨日の第10方面軍からの感状に対する八原高級参謀の感想にも「当初から敗れるに定った戦闘、─本土のための戦略持久─」とあるが、昭和天皇の御言葉も「国軍ノ為ニナルヤウニ」、大本営も組織的戦闘終了にともない「本土ニ侵寇スル敵軍ヲ撃滅シテ其非望ヲ破摧スル」というなど、沖縄戦がどのような性格の戦争であったか、軍中央や中央政界が何について関心を抱き、その関心のために沖縄をどのように位置づけたか、あらためていうまでもないだろう。
 なお、大本営はこの日付けで戦訓速報第187号「沖縄作戦ノ教訓」をまとめ、 29日付けで戦訓特報第48号「沖縄作戦ノ教訓」をまとめた(両者は基本的には同一のものと考えていい)。沖縄戦の戦訓についてはこれまでも折に触れて取り上げてきた通りであり、本土決戦に向けて沖縄では壮大な「死のデータ」が観測され続けたのである。
 一方で沖縄戦の一年前には「マリアナ戦訓」がまとめられ、そこでは 「制空制海権ヲ失ヒ職烈ナル砲爆撃ノ下島峡ノ防衛ハ成立セス」 という教訓があったが、大本営はそれを沖縄戦にまったく活かしていない。沖縄戦の戦訓という死のデータも、万一本土決戦がなされていた場合、どれほど活かされたかは不明である。

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少年の腕に包帯を巻く海兵隊員 45年6月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号81-29-2】

ひめゆり学徒など女子学徒

 多くの女子学徒隊は、首里放棄・南部撤退後の6月初頭に「解散」となっていた。女子学徒は野戦病院での看護業務についていたが、南部撤退後は医薬品もなく、医療業務ができなくなったためであるといわれている。そのため南部の激戦地に放り出され、ガマに隠れるなどして戦場をさまようことになった。
 八重瀬岳の第24師団第1野戦病院は県立第二高女の白梅学徒隊などが動員されていたが、6月4日朝に解散が告げられた。その他、私立積徳高女のふじ学徒隊は真壁の糸洲の壕で米軍のガス弾攻撃におびえる毎日を過ごしていたが、6月26日にやはり解散が告げられた。私立昭和高女の梯梧学徒隊は19日に摩文仁の米須で解散を告げられた。ふじ学徒隊のように軍医が「死んではならない」と伝えたケースもあるが、大半が無責任に戦場に放り出され、米軍の攻撃の前にただただ命を落としていくばかりであった。
 そうしたなかで、県立一高女や女子師範などの学生によるひめゆり学徒などがいた伊原第三外科壕では、18日に軍病院が解散となり、米軍の投降の呼びかけもあったが、19日にはガス弾が撃ち込まれ、多くの人が亡くなったという。また第三外科壕の近くには第一外科壕があり、こちらにもひめゆり学徒隊などがいた。生き残った学徒たちは、やはり南部の激戦地をさまよい、摩文仁付近の荒崎海岸で手榴弾で強制集団死を遂げた。
 彼女たちの最後については多くの証言が残っており、証言集などで記録されている。また以下のようにNHK戦争証言アーカイブスにも多数の方の証言が記録されているので、直接知っていただきたい。

県立第一高等女学校の学生として動員された宮城喜久子さんの証言:NHK戦争証言アーカイブス

沖縄師範学校女子部の学生として動員された宮城ルリさんの証言:NHK戦争証言アーカイブス

 ところで、あるひめゆり学徒は、陸軍病院一日橋分室で看護業務についている際、日本兵による級友の女子学徒へのわいせつ行為を目撃したと証言している。

 生きるか死ぬかという土壇場にきても男性というのは野獣みたいな欲望を出して来るので、それはとても怖かったです。だから引率の先生がいちいち監視していましたし、軍医がとても厳しい人でしたから私たちはだいぶ助かりました。
 それでも炊事の兵隊なんかは、スキを見ては後ろから抱きついたりするので、級友に抱きついた兵隊に私が「そんなことをして! 軍医に言いつけてやるから」と言ったんです。するとやはり上官は恐いらしく止めました。戦場でも女性の一人歩きは、その意味でも恐いものでした。

(県立一高女城間素子さんの証言:『那覇市史』資料編第3巻7 沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記1)

 もちろん全ての女子学徒がこのような証言をしているわけではなく、そうした行為は一切なかったという女子学徒の証言も残っているが、城間さんのこうした証言から考えれば、証言することができず心の奥底にしまっただけで、これ以上の日本兵による女子学徒へのわいせつ行為があったことは容易に推測される。

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沖縄県立女子師範学校・沖縄県立第一高等女学校アルバム バスケットボール部:那覇市歴史博物館デジタルミュージアム所蔵【資料コード02014614】【ファイル番号013-02】

鉄血勤皇隊など男子学徒

 軍の組織的戦闘が破綻したこのころ、鉄血勤皇隊などの男子学徒による学徒隊に「解散」が命じられる。彼ら少年たちもまた戦場のど真ん中に突如として放り出されたのである。
 解散の命令では北部の国頭方面へ転進するよういわれる者もあったが、投降が許されているわけではなく、軍人精神のもとで行動する必要があった。これが解散以降に犠牲者が増加する要因であった。
 例えば師範学校鉄血勤皇隊の諸見守康さんは前日の19日に敵中を突破し国頭に集結するよう命令され、この日摩文仁の壕を脱出した。
 戦場をさまよう彼らを待ち受けていたのは、米軍の猛爆撃による一方的な殺戮戦であり、彼らは射撃、砲撃、ガス弾、火炎放射など様々な攻撃によって戦死し、あるいは自ら手榴弾で命を絶った。また敗残兵による最後の斬り込みに参加させられ、命を落とした者もいるという。
 彼らの最後も、ぜひ以下のアーカイブスから直接証言を聞いて知っていただきたい。

一中鉄血勤皇隊石川栄喜さん:NHK戦争証言アーカイブス

戦場の少年兵たち─沖縄・鉄血勤皇隊─:NHK戦争証言アーカイブス

 一方で、解散命令後の極限状態では、生き残るために利己的になった一部将兵の卑劣な姿があった。学徒たちを敵中に置き去りにして自分たちだけ退却した将兵たち、学徒隊には絶対に捕虜になるなと自決させておきながら自分は米軍の捕虜になった将兵たち、学徒たちを敵陣に突撃させた隙に自分たちだけ逃げていった将兵たちが目撃されている。

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糸満の民間人救護所 45年6月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号81-11-3】

新聞報道より

 この日の沖縄の戦況について、大阪朝日新聞は次のように報じている。

バックナー即死す
 沖縄米軍陸上最高指揮官

グァム島放送局は十九日二時三十分ニミッツ司令部は十八日二十三時三十分公表として沖縄本島米軍陸上最高指揮官中将バックナーの戦死を発表した
「米第十軍司令官中将バックナーは海兵第八戦闘連隊の戦闘を観戦中十八日十三時十五分日本側砲爆により即死した、その後任はガイガーが当ることになった」

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

沖縄の皇軍要地奪回
 八重瀬岳麓で激戦
  西海岸大里でも奮戦

沖縄本島南部島尻地区ではその後敵は八重瀬岳方面で逐次浸透し十六日には敵の侵出線が東海岸仲座南側から八重瀬岳南側の線を連ね、所在のわが部隊はこれに対して猛反撃を加へている、十七日にはわが方は八重瀬岳西南方八百メートル一五七六高地およびその南側地区(八重瀬岳より約一キロ半)を奪回、引続き反撃中である、これにより東海岸方面の戦線はいまのところ安定している、中央および西海岸方面の戦線は大なる変化はないがこの方面で特に激戦が行はれているのは大里南方約五百メートル附近の高地端である

(同上)
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前線で記事を書く従軍記者ヒルバーン 二等軍曹45年6月20日撮影:沖縄県公文書館【写真番号73-25-4】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『大本営陸軍部』<10>
・「沖縄戦新聞」第11号(琉球新報2005年6月23日)
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『那覇市史』資料編第3巻7 沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記1
・吉浜忍「沖縄戦研究と軍事史料」(『史料編集室紀要』第24号)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)

トップ画像

靖国神社を参拝する昭和天皇:靖国神社臨時大祭記念写真帖(昭和15年4月)