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【沖縄戦:1945年5月29日】米軍、首里城突入 第32軍の無線封止─首里放棄・南部撤退をめぐる日米の情報戦

29日の戦況

 那覇方面では市街戦の様相を呈していた。米軍は払暁より牧志町および35高地(現在の那覇高校近くの城丘公園か)で激戦となり、35高地は確保したものの牧志町では壺屋町付近まで米軍が進出してきた。
 米軍の一部は首里の西側から守備隊の間隙を縫うように首里城へとりつき、突入した。この付近は第62師団が防衛を担任していたが、26日以降の同師団の退却攻勢によって特設警備第223中隊がわずかな兵力で守備している状況だった。また独立混成第15連隊第3大隊を松川地区から繁田(多)川に後退させたため、防衛に間隙が生まれていた。
 これにより首里地区に配備されていた歩兵第32連隊は、背後から米軍の攻撃をうけることになった。

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29日の那覇・首里西方の戦況:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 首里司令部北方の大名ー平良ー石嶺ー弁ヶ岳などの線は大きな変化がなく、陣地を保持した。
 首里司令部東方、東南では米軍の猛攻をうけたが、おおむね宮平東側高地ー87高地(現在の南城市大里古堅周辺)ー仲間(現在の南城市立大里中学校周辺)の陣地線を確保した。
 その他、第24師団に配属された船舶工兵第26連隊は与那覇北側の宮城付近に進出し、米軍と互角に対峙した。また米軍は雨乞森の高地沿いに南下し、眞境名付近まで進出したが、歩兵第63旅団司令部および独立歩兵第11大隊が与那原南2キロの大里付近を陣地とし、米軍の南下阻止にあたった。また独立歩兵第13大隊は与那原南南西4キロの目取真、独立歩兵第14大隊は目取真東方の大城北側150高地に転進し、米軍の南下阻止にあたった。
 第62師団長はこの日夜、戦闘司令所を津嘉山から津嘉山南4キロの東風平に移動させた。

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29日の首里東方・東南の戦況:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

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首里城の城壁に立つ第1海兵師団の兵士 45年5月29日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-08-4】

津嘉山から摩文仁へ牛島司令官の撤退

 第32軍牛島司令官以下司令部は、この日夜9時自動車で津嘉山司令部から摩文仁に向けて撤退する予定であったが、自動車の到着が遅れ、日付がかわった30日0時ごろに出発した。車両の不調や砲弾の落下するなか思うように南下は進まなかったが、途中米須より徒歩での移動に変更しつつ、夜明けごろ摩文仁89高地に到着し、木村参謀や三宅参謀が先遣され準備を開始していた新司令部壕に入った。

 軍首脳部は、野戦兵器廠の木炭自動車二台に分乗し、今夜二十一時出発、爾余の者はできる限り糧秣を背負うて、日没とともに徒歩で進発することに決まった。
  [略]
 五月三十日零時を過ぎて、ようやく自動車は津嘉山の麓に到着した。出発準備完了を見届けてから、将軍に出発していただくつもりだったが、例の調子で真っ先にさっさと暗い斜面を降りて行かれる。
  [略]
 じれったいことに、自動車が容易に出発しない。焼け落ちた石垣を楯にして出発を待つ。人々は砲弾に追われるようで気が気でない。ようやくにして動き出した一台のトラックに、まず首脳部のみ搭乗して出発する。がたがたの古自動車だが、運転兵はなかなか老練だ。荒れ果てた夜道をヘッドライトなしで巧みに前進する。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

首里から撤退した摩文仁での悲惨な経験を語る吉嶺全一さん:NHK戦争証言アーカイブス

鉄血勤皇隊員として摩文仁への撤退を経験した大田昌秀さん:NHK戦争証言アーカイブス

 なお、この日、第24師団の与座岳の壕で軍と沖縄県の連絡会議がおこなわれ、軍は住民に対し部隊があまり配置されておらず戦闘に巻き込まれる可能性の少ない知念半島へ避難するよう指示したといわれている。しかし、この時点で知念方面に米軍は南下を開始しており、軍の指示はあまりに遅すぎた。

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廃墟と化した那覇を通り進軍する第22海兵連隊 45年5月29日撮影:沖縄県公文書館【写真番号88-33-4】

日米の情報戦

 第32軍の首里放棄・南部撤退について、米軍側の戦史には、米軍は第32軍の首里放棄・南部撤退を確実には把握しておらず、第32軍はあくまで首里で徹底抗戦するつもりだと考えていたとある。

 五月二十六日の日本軍の移動が、空中からの観測で報告されたので、バックナー中将は、二十七日、命令を発し、両軍団(第三上陸軍団と陸軍第二四軍団)とも、「ただちに強力な攻撃を加え、日本軍を、支離滅裂になるまで攻撃せよ、敵をして、わずかといえども新たな陣地を確保することを、許してはならない」と指示した。この命令は明らかに、万一を予想しての措置で、米軍本部としても、実際には日本軍が首里を撤退した、などとは思ってもいなかったのである。
 第一〇軍の情報将校は、五月二十八日の幕僚会議で、「日本軍は首里北方周辺で、前線を守り抜く、というのがどう見ても最上の線だ。われわれはおそらく、周辺を遮断して、彼らの陣地をしだいに包囲することができるだろう」と意見を発表し、バックナー中将もまた、この会議で、日本軍が、左翼で第七師団を反撃する可能性が十分あることを懸念して、「そういう場合、アーノルド(第七師団長)はなにか適当な対策をもっているか」と聞いた。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 このように米軍は第32軍があくまで首里に籠って徹底抗戦をするものと見ていた。一方で、日本軍の「反撃」の可能性に触れるなど、何か思わせぶりな口吻が感じられる。
 そもそも米軍は現地軍や軍中央など日本軍の各種の暗号情報などを解読し、その内容をまとめ、分析し、その他の情報も検討しながら、日本軍の動きの現状や予測を政府高官や米軍部隊に配信していた。この配信は「マジック」といわれる。
 28日の米軍「マジック」には、第32軍の無線封止と攻撃計画について記されている。すなわち24日以来、第32軍の無線連絡が封止されているとともに、また日本軍(第32軍のことか)に大規模な攻撃の動きがある、と。

2.沖縄ー第32軍の無線の沈黙(那覇)
那覇を含む日本陸軍基幹系の無線が、5月24日以来、我らの無線所で傍受できなくなっている。また那覇を含む陸軍高級部隊無線通信系も、26日から傍受できないままである。
  [略]
2.沖縄ー日本軍陸上攻撃計画の可能性
5月25日の非常に断片的な電報によれば、日本軍は沖縄である行動を計画しているようだ。多分それは、5月28日に大規模な地上攻撃を行なうことだろう。[略]

(保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版)

 実際には第32軍の無線封止は、首里放棄・南部撤退のための措置であったが、一般的に無線封止は大きな作戦が発動される前兆であり、この前後の海軍沖縄方面根拠地隊の小禄から南部への移動と、南部から小禄への復帰をふまえ、米軍は第32軍の攻撃計画の可能性をマジックで触れたのであった。バックナー中将がアーノルド第7師団長に第32軍の反撃に対し適当な対策をもっているかと問うたのは、このマジックの情報を踏まえたものではないだろうか。
 一方、6月5日の米軍のマジックでは、東京の陸軍情報として摩文仁周辺の第32軍の前線の配備を報告している。この時点で米軍は南部での第32軍の確実な陣容と作戦を掴んだわけであるが、そこには6月1日のバックナー中将率いる第10軍の報告として、日本軍諜報網に明記されたとおりの防衛線で日本軍は最終的な抵抗線を準備している、などといった文言が記されており、すでに米軍は6月1日の時点で摩文仁周辺の第32軍の配備を把握していたことがわかる。
 5月26日におそらく第62師団の退却攻勢のことと思われる日本軍部隊の南下を観測した時点で、米軍のリサーチ能力から考えれば首里放棄・南部撤退の可能性が高いことはわかっていただろう。ただし、それがどこを拠点としてどのような陣地、防衛線の構築なのかまで米軍はつかめていなかった。もちろん第32軍も無線封止によって首里放棄・南部撤退に関する情報漏洩を警戒していたわけであるが、米軍は情報戦によって第32軍の首里放棄・南部撤退と撤退後の摩文仁を拠点とする陣地、防衛線を把握した。
 米軍側の戦史もそうした情報戦について大っぴらに記すことを憚り、日本軍は首里で徹底抗戦するつもりだと記したのかもしれないが、ある時期には米軍は情報統制を掻い潜って第32軍の行動を掴んでいたということもできるだろう。

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那覇の神社に慎重に近づいていく第6師団第22連隊の偵察兵 日本軍の狙撃兵を警戒している 45年5月29日撮影:沖縄県公文書館【写真番号72-36-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第10号(2005年5月27日)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』(光人社NF文庫)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)

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海兵隊第22連隊第2大隊G中隊の銃手 那覇の廃墟となった学校 45年5月29日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-24-4】