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【沖縄戦:1945年6月2日】米軍、国場川を渡河し豊見城方面へ進出 海軍沖縄方面根拠地隊と米軍が交戦 沖縄方面航空特攻作戦の現実

2日の戦況

 第一線部隊の収容陣地のある津嘉山地区は引き続き米軍の猛攻をうけ、地区内の陣地に進入されつつあったが、日没となり米軍の攻撃は中断した。
 津嘉山の収容陣地の保持はこの日までの予定であり、既に四周に米軍が滲透してきたため、同地で抵抗を続けていた歩兵第64旅団および歩兵第32連隊はこの日夜、津嘉山陣地から南部に撤退した。

各隊の撤退状況 
 歩兵第32連隊の主力は翌3日夕方までに糸満南東の国吉地区に到着し、陣地占領に着手した。
 また歩兵第64旅団司令部、独立歩兵第15、同第22大隊も3日、島尻最南端の喜屋武地区に到着した。特設第3連隊は1日夜、友寄を経て東風平南東4キロの新城に撤退しており、独立歩兵第21は東風平付近で陣地占領中であった。
 現南風原町神里付近もこの日米軍の猛攻をうけ、同地付近の戦車第27連隊は将校以下31名(神里到着当初は約140名)という壊滅状態になりながら南部の米須に向かって撤退した。
 同じく神里付近の独立歩兵第12大隊も多数の死傷者を出しながらこの日夜、米須に撤退した。
 第62師団司令部は5月29日夜津嘉山から東風平に移動し、さらに30日夜新城に移動し戦闘を指導するとともに、6月1日夜新城から摩文仁西4キロの山城に撤退した。
 歩兵第63旅団長は目取真に位置し作戦指導をしていたが、この日夜高平南側の独立歩兵第11大隊、神里の同第12大隊、目取真の同第13大隊、神里の戦車第27連隊、特設第4連隊などに島尻南部への撤退を明示、旅団司令部も同夜撤退した。
 独立歩兵第14大隊は依然として大城北側の150高地付近に陣地を占領していた。

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首里の玉陵の石彫の獅子像を調べる海兵隊第1連隊第2大隊の兵士 45年6月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-07-1】

海軍沖縄方面根拠地隊 
 小禄、豊見城方面の海軍沖縄方面根拠地隊はこの日、那覇、古波蔵、国場、津嘉山方面の戦況を見て、小禄の海岸正面や国場川にかかる真玉橋地区から津嘉山南1・5キロの現八重瀬町宜次方面に陣地を築いて警戒態勢をしいたが、米軍はこの日午後4時ごろ、真玉橋を通過し国場川を渡河、豊見城方面へ進出した。
 海軍部隊はこれを真玉橋集落まで撃退するとともに、この日夜、現豊見城市根差部や同長堂付近の兵力を増強し、警戒を厳とした。また3日未明には真玉橋を挺進隊により爆破した。
 海軍沖方根はこの日の戦闘の概要を次のように報じている。

沖縄根拠地隊連合陸戦隊戦闘概報第五二号
二日一二〇〇那覇及古波蔵ニ小型戦車(W K)集結古波蔵国場附近高地一帯ニ約五〇名陣地構築中ニシテ我之ヲ銃撃中
尚約五〇〇ノ敵ハ首里ヨリ那覇方面ニ約五〇〇ノ敵ハ与儀ヨリ国場ヘ移動中約二〇ノ敵ハ真玉橋ヲ修築中ニシテ敵ノ小禄ヘノ進攻ハ真玉橋方面ヨリノ算大濃化シツツアリ敵ノ第一線ハ那覇国場一日橋本部照屋購川神里ノ線ナルモノノ如シ海軍部隊ハ真玉橋嘉数ノ状況ニ鑑ミ宣寿ノ線ニ陣地ヲ占領敵ノ一挙糸満海岸ヘノ突進ヲ阻止シアリ
  [略]

(『那覇県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

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足を負傷した日本兵 サトウキビ畑に隠れているところを見つかった この日本兵は片腕がなかった 戦傷により切断されたものと思われる 45年6月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号98-14-4】

軍の戦況報告 
 第32軍はこの日の戦況を次のように報じた。

 二日夕刻ニ於ケル地上戦況
一 戦線著変ナク軍主力ノ転進行動ハ概ネ順調ニ進捗シツツアリ
二 然レトモ敵砲爆撃ノ重圧ハ逐次喜屋武半島方面ニ移行□□新主陣地帯ニ対スル敵機ノ攻撃竝ニ沿岸近ク若干蠢動スル大小艦艇ノ砲撃ハ傍若無人ノ様相ヲ呈シアル□□我諸行動著シク困難化セリ

※ □は判読不能。

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 なお、このころ薬丸参謀は津嘉山陣地で指揮をとっていた。薬丸参謀は士気旺盛であり、混乱しがちな撤退作戦をよく統率していたといわれる。薬丸参謀はこの日夜、摩文仁の司令部に撤退した。
 八原高級参謀は薬丸参謀の撤退戦の指揮と摩文仁への帰還について次のように回想している。

 退却作戦で軍司令官の最も注意されたのは二つある。第一は後退する各兵団の行動を的確に規制して、戦線に破綻を生ぜしめないことであり、第二は持久抵抗に力を入れ過ぎて、新陣地への後退が遅れ、防御準備が疎かにならぬようにすることである。
 各兵団の抵抗すべき線、時間ならびに使用兵力は軍の退却命令で概要は統制した。しかし国場川以南の各抵抗線全般に亘り、退却の当初から細かくはっきり決定するのは、実情に合しない。また通信連絡が不良なので、日々命令してその行動を律するのも困難である。そこで臨時に第六十二師団に配属してあった薬丸参謀を津嘉山に残置して、軍情報所長として、各兵団特に第二十四師団の残置部隊と第六十二師団主力との連繋調和に任ぜしめたのである。
 薬丸は茶屋本大尉以下要員十名を配属され、六月二日夕までに津嘉山に踏み止まり、各兵団の退却状況を的確に掌握して、適時報告するとともに適切な意見を具申し、克く任務を達成した。特に退却掩護部隊として一時第二十四師団に属した独立歩兵第二十二大隊が、権威のない歩兵第六十四旅団命令で過早に首里を撤せんとして両兵団の間に悶着を生ずるや、適切にこれを処理した件、津嘉山周辺に、相連繋して陣地を占領した歩兵第六十四旅団および歩兵第三十二連隊の両司令部を津嘉山の同一場所に開設させて、その協同連繋を良好ならしめた件、ならびに六月二日、第六十二師団が饒波川の線に拠る歩兵第二十二連隊との連繋を失して、後退せんとするのを看破して迅速に報告し、軍司令官をして適時これを調整せしめ得た件等、さすが薬丸なりと称賛せざるを得なかった。
 六月二日夜半、彼が任務を完了して摩文仁に帰ってきた際、私は風邪を引いてい三十九度の高熱を発し、気分勝れなかった。
 疲労困憊雨にぐっしょりぬれた彼を迎えて、快く労せず、かえって「指導積極に過ぎ、持久抵抗と防御準備が主客顛倒にならねばよいが」と皮肉な言葉をもらしてしまった。傍らで聞かれていた参謀長が、薬丸がやり過ぎたとでも思われたのか、さらに同じようなことを軽く注意された。彼の悄然たる姿を見て、実に気の毒でならなかった。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

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投降した日本人に質問するヴァン・ブラント海兵隊中尉 45年6月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号12-50-4】

沖縄北部の戦況

第二次恩納岳の戦闘 
 5月24日より米軍は第4遊撃隊(第2護郷隊)の拠点がある恩納岳へ砲撃を開始した(第二次恩納岳の戦闘)。米軍の砲撃は29日ごろには激烈となり、30日には米軍は眼鏡山の護郷隊前進陣地を攻撃してきた。護郷隊岩波隊長は同日、眼鏡山の守備隊を撤退させた。31日薄暮、護郷隊の指揮下にあった第44飛行場大隊の田中隊が前面の米軍に攻撃をおこなったが、田中隊長以下戦死者を生じた。
 6月1日、濃霧のなか米軍は迫撃砲の集中射撃と航空攻撃の協力のもとに三角山正面に猛攻を開始した。部隊は数度米軍を撃退したものの占領された。この攻撃により護郷隊指揮下にあった独立歩兵第12大隊の山添隊の第2小隊長らが戦死した。そしてこの日は早朝から恩納岳西方の田中隊正面が米軍の猛攻をうけ、陣地の一角が占領された。田中隊は残存の拠点と同じく第44飛行場大隊の大鹿隊の拠点も利用して防戦につとめた。

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第二次恩納岳の戦闘要図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

恩納岳の撤退 
 このころ石川岳から恩納岳に転進していた青柳連隊長率いる特設第1連隊の一隊は、岩波隊長の意見も聞き、この日夜恩納岳から久志岳に移動して遊撃戦を実施することに決した。
 その上で護郷隊も含め恩納岳所在部隊はこの日夜陣地を撤収し、日付がかわるころに山添隊を尖兵に一列縦隊となり久志岳に向かって前進を開始した。金武から安冨祖への道に沿う地区は米軍の警戒が厳重で各所で戦闘となり、尖兵の山添隊と部隊主力は連絡が途絶した。部隊主力は戦闘を交えつつ、あるいはその場に潜伏するなどしながら米軍警戒線を突破し、18日ごろようやく恩納岳北東6キロの安仁堂付近に達した。
 青柳連隊長は部隊の軽快性や食糧事情の問題を考慮し、部隊を再編区分した。青柳連隊長は大鹿隊と田中隊を指揮し恩納岳へ復帰し、護郷隊は国頭北部へ、要塞建築勤務第6中隊の2個小隊は同隊主力の所在する久志岳に向かいそれぞれ転進した。
 青柳連隊長率いる部隊は20日ごろには恩納岳へ帰還した。既に米軍はいなかったが、食糧事情は極度に悪化しており、連隊本部と各隊を分離して行動することとした。大鹿隊および田中隊は恩納岳付近に残留し、青柳連隊長は石川岳に転進した。このころには青柳連隊長一行は十数名にまでなっていた。8月上旬、青柳連隊長は石川岳の潜伏地を米軍に急襲され、拳銃で応戦発砲したものの戦死したといわれる。
 また恩納岳撤退にあたり尖兵となったものの米軍に攻撃され部隊主力と連絡が途絶した山添隊は、その後各所で交戦しつつ4日には恩納岳北東7キロの名嘉真岳に到着したが、米軍が付近に所在していたものの、6日には名嘉真岳を出発し、10日に久志岳に、さらに14日ごろ一岳に転進した。一岳到着後、山添隊長は第3遊撃隊(第1護郷隊)の村上隊長と連絡し、一岳付近に拠点を設けて遊撃戦を実施することになる。

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長雨により陸上輸送が困難となったため、パラシュートで上空から補給する 45年6月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号73-05-2】

沖縄方面航空特攻の現実

 この日の大阪朝日新聞は、沖縄の戦況を次のように報じている。

二空母、三戦艦等五十一隻を屠る
 守備部隊浸透の敵と激戦
【大本営発表】(昭和二十年六月一日十五時三十分)一、我航空部隊並に潜水部隊は其の後引続き悪天候を冒し沖縄本島並びに伊江島の敵航空基地及本島周辺の敵艦船並びに機動部隊を攻撃中にして五月十一日以降我方の収め得たる戦果中現在迄に判明せるもの次の如し
撃沈 巡洋艦六隻、駆逐艦三隻、輸送船五隻、艦種不詳七隻
撃破又は炎上 特設航空母艦二隻、戦艦又は巡洋艦三隻、巡洋艦四隻、駆逐艦四隻、輸送船六隻、艦種不詳十一隻
飛行場爆破炎上四十六箇所以上
右戦果の大半は我特別攻撃隊の攻撃に依るものなり
二、沖縄本島南部地区の部隊は其の後与那原南方地区、首里、那覇の線に逐次浸透し来たれる敵に対し勇戦敢闘中なり
  [略]

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

 確かに5月上旬から6月のはじめまで、海軍航空部隊は菊水6号作戦から同8号作戦を、陸軍航空部隊は第7次航空総攻撃から第9次航空総攻撃を中心に、航空特攻作戦を主軸とする沖縄方面航空作戦を展開し、沖縄洋上の米英艦船に一定の損害を与えた。しかし大本営発表が誇大であることはいわずと知れたことであり、実際に航空特攻の成果は必ずしも芳しいものではなかったといわれている。
 その理由としては、そもそも出撃した特攻機が機体の整備不良やパイロットの航空技量不足によって沖縄方面まで辿り着けずに不時着することも多く、辿り着いたとしても米軍が張り巡らしたレーダーピケットで探知され、緊急発進した米軍機により撃墜されるということがあった。万一レーダーピケットを掻い潜り、米軍のスクランブルを振り切って米艦船に近づいたとしても、そこには猛烈な対空砲火が待ち受けていた。そして、これら全ての条件をクリアして米艦船に突入したとしても、機体そのものがエアブレーキとなり、米艦船を沈没させるまでの破壊力はなかったといわれることは何度か述べてきた通りである。
 それとともに、陸海軍の航空作戦情報そのものが米軍に傍受され、事前に把握されていた可能性も見過ごせない。「マジック」といわれる米軍情報部による日本軍暗号通信の傍受解読文書によれば、沖縄方面航空特攻作戦の情報が事前に傍受され、米軍が把握していた様子が読み取れる。例えば、この日のマジックには次のようにある。

9.琉球─日本軍特攻計画
6月2日早朝、「悪天候のため」3日連続して天航空部隊は、琉球における航空総攻撃を中止した。2日16時40分、同部隊は「天候が回復せば」3日の航空攻撃を予令した。それから2時間後、同部隊は「沖縄の天候が晴天(用語不詳)予報」のため「今夜全部隊は、沖縄方面の攻撃に着手せよ」と命令を発した。

(保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版)

 45年6月2日付のマジックにおいて、既に翌3日の航空攻撃の予令や攻撃命令が傍受解読されている。実際に第5航空艦隊司令官として海軍の沖縄方面航空作戦を指揮した宇垣纏中将の日記『戦藻録』によれば、2日は天候が悪く航空特攻作戦を中止し、3日に天候が回復したため航空特攻作戦を実施したと記されており、マジックの内容と符合する。
 日本軍の軍事情報を傍受解読し、さらに分析して配信するなど、マジック作成までに多少のタイムラグは存在し、リアルタイムでマジックが配信されたとはいえないが、それでもかなり早い段階で米軍は沖縄方面航空特攻作戦など日本軍の作戦を把握し、事前の準備態勢を構築していた可能性がある。
 実際、ハワイの太平洋艦隊司令部で日本軍通信を傍受解読したジョン・ウィントンは、菊水作戦について

無線情報班のこの貴重な助けがあったにもかかわらず、またレーダー・ピケット艦の警報、二重、三重に強化された装甲、近接信管の広範な使用、いっそう向上した戦闘機の要撃官制、より勇敢に、より献身的にはたらいた上空直衛戦闘機、これらがあったにもかかわらず、米軍が名付けた”聖なる風”の来襲は続いた。

(上掲保坂書)

と述べたという。ここでいう「無線情報班のこの貴重な助け」とは、いうまでもなく日本軍通信の傍受解読と配信というマジックのことを指すものと思われる。こうした事前の情報漏洩が沖縄方面航空特攻作戦の成果が芳しくなかった原因の一つだったのではないだろうか。
 他方、何事においても机上の想定と現実は異なる。まして決死の特攻機は、人々の予想を超える。特攻機は時に米軍の事前の対策もレーダー・ピケットも対空砲火もくぐりぬけ、少なくない機が米艦に突入していった。上記のジョン・ウィントンの発言における「~にもかかわらず、米軍が名付けた”聖なる風”の来襲は続いた」という言葉は、マジックをはじめとする米軍の対策があるにも関わらず無駄な特攻作戦が続けられたという揶揄とともに、それでもなお特攻機が米艦への突入を成功させたという驚愕の感情も伺える。

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中城湾に停泊中の米艦を護衛する第230高射砲兵大隊C中隊のサーチライトとレーダ―アンテナ状のもの 中城湾に突入する日本軍特攻機から米艦を防衛する設備と考えられる 45年6月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号07-10-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・吉田裕『日本軍兵士─アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)
・宇垣纏『戦藻録』下巻(PHP研究所)

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国場川にかかる橋への入口を警戒する米海兵隊砲兵隊員 45年5月30日撮影:沖縄県公文書館【写真番号83-31-4】(siggraph2016_colorization でカラー化)