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【沖縄戦:1944年7月12日】「島民ハ軍ニ準ジ行動セシム」─歩兵第36連隊の大東諸島配備 大東諸島の沖縄戦

歩兵第36連隊の大東諸島配備

 満州に配備されていた第28師団福地参謀長が7日に宮古に入り、翌8日に司令部を設置したことは以前触れた通りである。これに遅れて師団の各部隊は8月ごろ宮古に上陸することになるが、そのうちの歩兵第36連隊(平野儀一連隊長)は一足先に3日に釜山を出港し、呉を経由して沖縄の中城湾に10日に入港した。翌11日、大東島守備の軍命令をうけた連隊はこの日、以下の大東諸島防衛の連隊命令を発した。これにより連隊は三個梯団を編成して14日より順次沖縄島を出発、25日までには大東諸島に上陸した。

大東守作命第一号  十九年七月十二
一 中部太平洋方面ヨリスル我カ南西諸島ニ対スル敵進攻ノ公算ハ逐日増大シツツア
二 連隊ハ左記部隊ヲ併セ大東島守備隊トナリ所在海軍ト協力シ主力ヲ以テ南大東島夫々一部ヲ以テ北大東島及沖大東島ヲ確保セントス
  [略]

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 もともと大本営は大東諸島防衛のため44年3月、第85兵站警備隊を第32軍に編入し、同警備隊は5月には大東諸島に配備された。同警備隊は「大東島支隊」と称し、本部を大東諸島の南大東島に設置し、北大東島と沖大東島(ラサ島)にも一個歩兵中隊をそれぞれ配備していた。さらにそれ以前は飛行場建設と飛行場防衛のため在郷軍人を防衛召集して隊員とする特設警備第211中隊と海軍の警戒隊が配備されていた程度であった。
 44年6月、上京した第32軍八原高級参謀に大本営は、マリアナ諸島を占領した米軍はそのままの勢いで大東諸島を制圧し、さらに沖縄を攻撃するとしたが、八原高級参謀は「米軍の大東島来攻の算は極めて少なく、過大の兵力をあわてて投入する必要なし」と意見した。しかし大本営は八原高級参謀の意見に同意せず、歩兵第36連隊の配備を決定した。また長勇参謀長も大本営に大東島防衛の強化を打電した。
 こうして配備された歩兵第36連隊は大東島支隊を指揮下に入れ大東島守備隊と称し、北大東島に一個大隊、南大東島に司令部と二個大隊を置いた。また海軍部隊も配備され、島の人口を上回る兵員が駐屯することになった。「慰安所」も設置され、朝鮮半島出身の女性が「慰安婦」とされた。特に大東諸島では朝鮮半島出身の「慰安婦」が日本兵に殴られて泣く姿や、2人の「慰安婦」が連隊長の「専属」をさせられている姿などが目撃されている。

戦跡と証言 南大東村 電波探知塔【放送日2009年10月7日】:NHK戦争証言アーカイブス

大東諸島の沖縄戦と住民

 大東諸島に配備された軍は学校や社宅、民家を兵舎とし、陣地構築や飛行場建設を開始した。軍は当初、持久戦のため複郭陣地を構築したが、後に水際作戦のためにトーチカと砲台など海岸線に陣地を構築し(「渚陣地」と呼ばれる)、島を要塞化していった。
 こうした作業には島の物資と人員が総動員された。住民は徴用や勤労奉仕で動員され、家畜も軍が管理し、物資も軍が徴発していった。さらに軍は食糧確保のため畑へのサトウキビの植え付けを制限し、イモや麦、豆、タピオカ、野菜などを増産させ、食糧を軍に供出させた。
 それでは住民を動員して要塞化した島で、軍はどのような作戦を計画していたのかというと、上陸を試みる敵は「渚陣地」で撃退し、万一上陸を許した場合には内陸の主陣地に秘匿した軽重火器の支援の下、斬込み攻撃を敢行するというものである。その上で主陣地を占領された場合は、司令部壕のある高地を死守し、持久戦を展開するというものであった。
 この持久戦に軍は住民も参加させる予定であった。軍は戦闘計画に「島民ハ軍ニ準ジ行動セシム」と明記し、実際に男性住民には刺突や手榴弾の投擲など、女性住民には救護や食糧確保などを習得させるための軍民合同演習実施するなどした。
 一方で軍は女性や高齢者の疎開も進めたが、それはあくまでも口減らしと足手まといの者を排除するのが狙いであった。大東諸島は沖縄戦中、空襲、艦砲射撃にさらされるが、地上戦はなかった。45年8月31日、大東島守備隊は軍旗奉燃式がおこなわれ、以降順次武装を解除する。

戦跡と証言 南大東村 旧南大東空港【放送日2009年11月4日】:NHK戦争証言アーカイブス

平野儀一連隊長と田村権一連隊長

 歩兵第36連隊(大東島守備隊)の連隊長は平野儀一連隊長と記したが、実は平野連隊長は45年3月、昇進に伴って大陸に異動となり、かわって第62師団独立歩兵第14大隊長として首里北方の防衛を担っていた田村権一が連隊長として大東諸島に着任している。当初は持久戦のための複郭陣地構築から水際作戦のための「渚陣地」構築という上述の作戦方針の変更も、この連隊長交代に起因する。
 すなわち平野連隊長は、サイパンでの水際陣地の早々の壊滅をうけて後退配備を中央から強く指示されており、そのため米軍上陸後20日から1ヵ月は飛行場設定を妨害するため、夜間斬込みなどで戦う持久戦の展開を作戦方針とした。
 しかし田村連隊長は着任後、部下の将校から状況報告をうけるとともに島内を視察し、作戦の不備を厳しく指摘したという。そして水際陣地、すなわち「渚陣地」を強化し、上陸する敵には積極的な攻撃を仕掛ける作戦方針に転換し、陣地構築作業などを進めた。こうした田村連隊長の積極的な防衛作戦はこれまでの作戦方針と真逆であり、また陣地構築なども最初からやり直すため、部下の将校の掌握や士気の維持などは大変だったようだ。そもそも田村連隊長自身がかなり厳しい指導をするタイプであったらしく、部下の将校はある時など田村連隊長の叱責に耐えられず、軍刀に手をかけるまでに至ったという。
 しかし、田村連隊長はけして人間的に悪辣な性格で部下をいじめて楽しむようなタイプだったということではなく、作戦方針の是非は別としても、それは田村連隊長なりの経験に裏づけられた合理的なものであり、次第に部下たちは田村連隊長に心服するようになったという。何より「敵を見るまで衛生第一線」と衛生の保持に注意を払い、また兵士たちにも耕作をさせて栄養の確保をはかるなど、士気、軍紀の維持にも努めた。
 8月31日、軍旗奉焼後、田村連隊長は主要な幹部を集めて今後の身の処し方について意見を求めた。自決と帰還が相半ばし意見がまとまらなかったが、最後に田村連隊長が「全将兵、帰還して下さい」と諭し、全員復員となったという。
 このように軍や軍人の目線で見れば田村連隊長はある種の「名将」ともいえる人物ともいえるのだが、上述のように住民、あるいは朝鮮出身の「慰安婦」たちから見れば、恐ろしく、また心の底から憎らしい人物でもある。
 こうした沖縄戦の諸相、特に住民、なかでも女性、子ども、アジアの人々から見た沖縄戦という視点を失わないようにしたい。

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・ホンユンシン『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』(インパクト出版会)
・齋藤達志「南大東島の島嶼防衛─大東島守備隊長田村権一を中心に─」(『軍事史学』第55巻第4号)

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米軍が44年12月に撮影した南大東島の空中写真 戦闘に向けてか障害物や構築物の分析がなされている キャプションには撮影日を45年6月20日とされている:沖縄県公文書館【写真番号114-09-3】