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【沖縄戦:1945年5月1日】前田高地頂上争奪戦が展開 八重山支庁、「御真影竝ニ詔書ノ奉護ニ関スル件」を通達

1日の戦況

 第二防衛線全線でこの日も激戦が続いた。
 第二防衛線右翼、小波津付近の陣地の一角は、昨30日に占領されたが、守備隊の丸地大隊は占領地拡大の阻止につとめた。また、この日の夜、米軍の一部はさらに進撃し、運玉森(コニカルヒル)北東側高地に攻撃してきた。
 幸地地区では、火炎戦車を伴う米軍の攻撃をうけたが、守備隊はこれを撃退した。

 幸地丘陵の戦闘は、五月の初旬になってもなおつづいた。第一七連隊は、なんら得るところもなかった。五月一日、装甲ブルドーザー一台が出動し、西側から幸地丘陵への道をならした。そして、つぎには火炎砲装甲車が一輌この道路を通って、二回にわたって前面の丘腹を焼きはらった。しかし、それでも峰の向こう側の東丘腹にある日本軍陣地を攻撃することはむりであった。[略]

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 伊東大隊の奮闘により奪回した幸地南西の146高地は、この日朝9時ごろから戦車4両を伴う米軍部隊50~60名の攻撃をうけた。この米軍戦車に対し平良町東側に布陣していた野戦高射砲第81大隊の高射砲が射撃し、正午ごろには撃退した。15時ごろ、再び米軍戦車2両が146高地西側に進出したが、これに対して平良町北側に布陣している独立速射砲第3大隊第2中隊の廣瀬小隊が射撃をくわえ命中させた。小破程度の損害をあたえただけだったが、戦車は後退した。
 前田高地では、引き続き高地頂上の争奪戦が展開され、守備隊は多くの損害を出しながらも何とか高地頂上を確保した。頂上付近では、米軍の攻撃が集中しているあいだは守備隊は壕内に隠れ、米軍歩兵が頂上付近にあらわれると壕から出て反撃する一進一退の攻防が繰り返された。前田洞窟の志村大隊は前田東方高地の奪回を企図したが、出撃の都度多数の死傷者を出し、成功しなかった。
 前田集落南側高地の米軍は、南方に向かって攻撃してきたが、守備隊はこれを阻止した。
 安波茶、沢岻北側、内間、仲西の地区は、戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけたが米軍の突破を阻止した。宮城の集落はほとんど破壊され米軍に占領された。
 西海岸方面の防衛は独立歩兵第15大隊を基幹とする僅少な兵力であり、第32軍は29日、この方面の強化のため知念地区の独立第2大隊を第62師団に配属し天久地区に配備した。
 なお安波茶以西の米軍はこれまで米歩兵第27師団の戦闘地域であったが、同師団は疲労はげしく、この日第一海兵師団と交代した。

[略]首里第二防衛線の攻撃が行われている最中、四月の末には、第七師団をのぞく全米軍の前線では、疲労困憊した部隊の大きな入れ替えがあった。西側の第二七歩兵師団は第一海兵師団がとってかわり、中央部の第九六歩兵師団は第七七師団と交替した。この師団交替は四月三〇日までには完了し、第七師団は前線に残って、第九六師団が十日間の休息をしてから交替した。
 四月の末日までには、前線の部隊交替は、日本軍の陣地が頑強で、しかも早急には陥落しそうにもないことから、どうしても必要だった。第九六師団は、沖縄上陸のときから、すでに師団としては十分な兵力をもっていなかったが、戦闘でさらに大きな損害をこうむっていた。そのためどうしても休養が必要であり、また他部隊と入れ替わる時間も必要だった。これに反して、第七七師団のほうは、慶良間列島や伊江島で戦ってきたとはいえ、比較的フレッシュであった。また第二七師団のほうは、もともとは沖縄戦に使うつもりはなかったが、第七師団と第九六師団だけでは、首里防衛線を突破することはむずかしいことがわかったので、臨時として第二四軍団に配属されていたのだ。

(上掲「日米最後の戦闘」)

 沖縄北部では村上隊長率いる第3遊撃隊(第1護郷隊)が遊撃戦を展開していた。4月29日に隊本部が世冨慶の米軍拠点を襲ったことは述べた通りだが、30日には第4中隊が辺野古崎で弾薬集積所を爆破した。続いてこの日、第4中隊と隊本部が許田、名護街道、古知屋、大浦の各地の米軍を襲い、通信線や自動車、重機を破壊し、米軍人員約20名を殺傷したとされる。

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日本軍の機関銃砲座への入口 ここから入ると画像奥のひらけた土地に向けて銃眼が備えられているのだろう 軍はこうした陣地建設に住民を動員したが、それにより住民が軍事機密を漏洩することを極度に恐れた 45年5月1日:沖縄県公文書館【写真番号04-88-3】

米軍情報部「マジック」

 米軍が日本政府や日本軍の各種通信を傍受、解読し、解説した上で各組織に配信する「マジック」を見ると、すでにこの日の時点で4日を期しての第32軍の総攻撃について米軍が把握していたことがわかる。もう少し正確にいうと、第32軍の総攻撃にあわせて海軍航空部隊の総攻撃、すなわち菊水五号作戦が展開されるが、米軍はこちらについての情報をつかみ、この海軍部隊による航空総攻撃に第32軍も呼応して総攻撃をおこなうものと理解していたようだ。この日の米マジックには、次のよう記されている。

7.沖縄─日本軍攻撃計画
a.昨日のマジックに報告したように、30日遅く第1機動基地航空部隊は、菊水5号作戦の計画を明らかにした。それから約2時間後、同部隊は追加命令を出し「沖縄地域の総攻撃」計画の詳細を明らかにした。
(1)X-1日(おそらく5月3日)、3個航空部隊は、「北飛行場(沖縄島)及び物資集積所に対し夜間攻撃を実施せよ。他の3個航空部隊は、泊地付近の艦船に夜間攻撃を実施せよ」。もし敵機動部隊が、夜間索敵地域に停泊していれば、「国分部隊の全部隊(3個航空部隊)は、敵空母殲滅のためX日黎明に発進せよ」。
  [略]
b.沖縄海軍根拠地隊からの5月1日の断片的な電報では、X日に関する日本軍予定では、沖縄地上部隊も参加するようだ。連合艦隊及び九州・台湾に発信された電報は以下のように記している。
「軍は、X日(おそらく5月4日)の開始にあたり総攻撃を行う。ついては我々は地上戦援護のため以下のことを要請するものない。
(1)5月2日、3日の両日、嘉手納沖合の航空攻撃、及びC・D地区の反抗にたいする援護
(2)総攻撃前の北及び中飛行場の無力化、さらに総攻撃後も引き続きこれら飛行場攻撃に依る援護」。

(保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版)

 およそ本土の海軍関係の通信の傍受により菊水五号作戦の全貌が把握され、海軍沖縄方面根拠地隊の通信により第32軍の総攻撃計画も把握されたと考えることができる。

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空から見た揚陸路と戦車揚陸艦用斜道 伊江島のグリーンビーチ1 45年5月1日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-12-3】

沖縄戦と御真影

 御真影とは昭和天皇皇后や明治天皇・皇后、大正天皇・皇后など天皇皇后の写真や肖像のことであるが、戦前、主だった各学校に教育勅語とともに下賜された。沖縄では他県にさきがけ1887年(明治20)に沖縄尋常師範学校に御真影が下賜され、その翌年には宮古・八重山へ下賜された。
 御真影や教育勅語は奉安殿という特別の施設に安置されるなどしたが、米軍による空襲が本格化しはじめた昭和18年、文部省は「学校防空指針」を各学校に通達し、御真影を学生・生徒・児童や校舎、貴重な文献とともに防護するべきものとした。

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旧美里国民学校奉安殿(沖縄市美里児童園内):筆者撮影

戦跡と証言 美里の奉安殿:NHK 戦争証言アーカイブス

 沖縄では44年10月10日に十・十空襲といわれる大規模な空襲に襲われたが、各学校の校長は御真影を抱えて山奥や防空壕に避難したという。稲嶺国民学校の教員であった島袋庄太郎は「寝ても覚めても家族のことより御真影のことを考えていた」と当時を回想している。
 県は御真影を一定の箇所にまとめて防護することを決め、御真影奉護壕を設置した。沖縄島では名護市の稲嶺国民学校および名護市の大湿帯の奉護壕に各学校の御真影が集められた。また宮古島は野原越、石垣島では白水山中に奉護壕が設置され御真影が安置された。
 八重山支庁ではこの日、支庁長から各学校長宛てに「御真影竝ニ詔書ノ奉護ニ関スル件通牒」が通達され、各学校の御真影は石垣国民学校の奉安殿に集められ、旅団壕を経て白水山中の奉護壕に運び込まれた。
 こうして避難させられた御真影に対しては、各学校の学校長を中心に「御真影奉護隊」が結成され、管理・防護を担った。名護市の大湿帯に避難した御真影は、御真影奉護隊が80日間も山中をさまよいながら管理し、最後は奉焼することになった。

戦跡と証言 御真影奉護壕:NHK戦争証言アーカイブス 

 八重山支庁では男性教員が召集されたため、女性教員が交代で御真影の管理をおこなっていたが、戦況の悪化により登野城国民学校の校長の浦崎賢保が白水の奉護壕の近くに避難小屋を建て、家族と暮らしながら管理したといわれるが、最終的には奉焼された。
 空襲のさなか、御真影を奉護し殉職した校長や教員も多く、また山中で御真影に対し毎朝拝礼をし、4月29日の天長節には御真影への拝賀式をおこない、国歌を斉唱したともいわれる。戦前の皇民化教育の象徴のような事例といえる。
 御真影や御真影奉護については、あらためて触れたい。

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ブルービーチ2の105ミリロケット砲弾薬集積所 45年5月1日撮影:沖縄県公文書館【写真番号85-09-2】

後方指導挺身隊の設置

 沖縄県はこの日、島田知事を総帥とする後方指導挺身隊を編成し、6日にには豊見城村長堂に挺身隊本部を設置する。
 挺身隊は4月27日に開催された市町村会議で決定したところの戦意高揚や増産、壕生活の指導などを担う戦場行政組織であり、企画班、志気昂揚班、増産督励班、壕生活指導班などからなる。また課長、所長級を隊長とする分遣隊が南部各市町村に配備された。
 すでに沖縄県警察部は通常警察活動を停止し、警察警備隊を発足して住民保護や疎開、治安維持、軍作戦への協力など戦場警察に移行していたが、沖縄県もすでに事実上戦場行政に移行していたとはいえ、これをもって通常行政から戦場行政に完全に切り替わったといえる。

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沖縄島で負傷し、捕虜となった日本兵 応急処置後の治療を受けるために、外科治療用テントの入り口で待つ様子 45年5月1日撮影:沖縄県公文書館【写真番号110-17-2】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎)

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名護市大湿帯の御真影奉護壕:NHK戦争証言アーカイブス(沖縄県名護市御真影奉護壕【放送日:2008年10月15日】)