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【沖縄戦:1945年8月1日】宮古島の新里国民学校で入学式、始業式がおこなわれる

学校教育の再建

 宮古島ではこの日、新里国民学校で45年度(昭和20年度)の入学式および始業式がおこなわれた。
 いうまでもなく、このころの沖縄の学校教育は崩壊していた。米軍上陸以前から学童の疎開や勤労動員などがあり、軍による校舎の接収や空襲なども学校教育の円滑な実施を難しくしていた。地上戦がはじまると現役教師や沖縄の次代の教育を担うべき師範学校の男女生徒の多くが命を落とした他、教育をうける児童、生徒、学生たちも傷つき、また命を落としていった。もちろん校舎などの教育施設は破壊焼失し、教科書はじめ学用品などもまったくなかった。
 しかし米軍が上陸し、住民の保護収容がすすんでいくと、学校教育の再建がはじまる。すでに触れた高江洲小学校や石川学園がこれにあたる。こうした学校教育の再建は、米軍の思惑もあり、高江洲小学校は45年4月半ば、石川学園は5月初旬など、かなり早い時期からはじまっていく。

 米軍としては収容所における子どもたちは頭痛のタネでもあった。いわゆる「戦果アギャー」として米軍施設に潜入し物資を盗む不良少年や、「ギブミー!」と米軍車両に近寄って物をねだる子どもなどが多く、そのために軍用トラックに子どもがひかれる事故なども多発していた。
 もちろん子どもたちも理由なく不良行為をしていたわけではなく、生きていくために仕方のない面もあれば、家族と生き別れ、その安否もわからず、文字通り心身ともに傷つき、精神的に荒廃していたことも事実である。
 こうしたことから沖縄の人々が子どもたちを集め、教育を施すことは、米軍にとって戦闘と軍政の展開上、歓迎すべきことであったのだ。
 しかし戦後の沖縄の学校教育の再建は、けして順風満帆とはいえなかった。例えば戦争を生き延びた教員たちは、再び教壇に立つことの葛藤があったようである。教え子を戦場に送り、自身も戦争に巻き込まれるなかで、これまで自分がやっていたことが軍国主義教育への加担でしかなかったことに気づき、自責の念や後悔の念により学校に戻らなかった教員も少なからずいたようだ。
 学校について地域の人々の感情も複雑だった。子どもへの教育について強い関心を持つ一方、精神的な戦前と戦後の混乱のなかで、学校に対し「アメリカの犬ども」「アメリカ学校」などと罵る人々もいたといわれる。
 学校教育の再建に期待した米軍も、社会的に影響力があり地域の知識人である「教員」という存在に対する警戒はあった。そのため教員による労働組合の結成などは、米軍の圧力により困難がつきまとったそうである。
 45年8月はじめ、米海軍軍政府内に教科書編修所が設置され、国家主義、軍国主義を排した教科書づくりがすすめられた。そうして生まれたガリ版刷りの初等学校一年生用『ヨミカタ』の教科書は「アオイソラ ヒロイウミ」との言葉からはじまる。文字通り何もかもが消滅した沖縄戦を経た子どもたちの前にあるものは、まさしく「アオイソラ ヒロイウミ」でしかなかった。
 しかし「アオイソラ ヒロイウミ」だけが残った沖縄で、米軍や教員、地域社会や子どもなど、様々な立場の思惑や考えや利害が錯綜していたことも事実である。
 この日、新里国民学校で入学式および始業式がおこなわれたことは、もちろん8月15日を迎える前、また米軍による占領や統治を迎える前の宮古島における学校教育の動向であり、上記の米軍の思惑などとはまた異なる動きではある。軍の狙いなどもあったのかもしれないが、少なくとも学校教育を正常化したいという沖縄、宮古島の人々の熱意も当然そこにはあったのであろう。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・川満彰「沖縄本島における米軍占領下初の学校『高江洲小学校』─米軍占領下発の学校設立の再考とその教員とこどもたち─」(『地域研究』第7号、2010年)
・川井勇「戦後沖縄教育『再建』の意識と構造」(『沖縄大学紀要』第10号、1993年)

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青空教室で子どもたちに授業をする新垣先生 45年4月15日撮影:沖縄県公文書館【写真番号06-09-2】